【長谷川等伯・久蔵】楓図・桜図②【美術番組まとめ】

美の巨人たち

2017年10月14日にテレビ東京にて放送された「美の巨人たち」の【長谷川等伯・久蔵「楓図」「桜図」】の回をまとめました。

今回の記事はパート2になります。
前回のパート1はこちら☚からご覧ください。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。

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狩野永徳の死

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

京の都で徐々に知名度を上げていく長谷川等伯
そんな彼の元に「御所」での仕事が舞い込みます。

等伯が任されたのは、御所内にあるたった一つ、小さな建物の障壁画でした。

しかしいくら少しのスペースでも、狩野派にとっては、御所の仕事は絶対に譲れないものだったのです。
特に狩野派を率いる狩野永徳には、頭角を現してくる等伯に「怒り」、そして「焦り」があった事でしょう。
永徳は裏で手をまわし、等伯の御所での仕事をもみ消すのです。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

しかしそれから間もなく狩野永徳は急死してしまいます。
享年48歳。絵描きとしては描き盛り、まさにこれからといったその矢先でした。
一説には、過労死であったともいわれています。

永徳の父である狩野松栄(かのう しょうえい)はまだ健在でした。
松栄にはこれからもっと狩野派を大きくしていこうという思いがあった事でしょう。
そんな中で嫡男・永徳を失ったのです。

豊臣鶴松の死

永徳の死により、京の都は騒然となります。
そこで狩野派に代わり、頭角を現したのが長谷川等伯だったのです。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

しかし、今度は天下人・豊臣秀吉に悲劇が降りかかります
息子の鶴松がわずか3歳で亡くなってしまったのです。

世継ぎであった鶴松の死に、秀吉は悲しみに暮れたといいます。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

その鶴松の菩提を弔うために建立されたのが、智積院の前身である祥雲寺でした。
そして、その堂内の障壁画の制作を命じられたのが、等伯久蔵親子だったのです。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

そのような経緯でこの『楓図』と『桜図』が描かれたのです。

若き天才!長谷川久蔵とは…

長谷川久蔵(1568~1593)の作品は、わずか数点しか残っていません。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

こちらはその内の一点、《大原御幸図屏風(おおはらごこうずびょうぶ)》という作品。
平家物語から取材した作品です。

繊細な筆遣いと細かな自然描写が光ります。


その長谷川久蔵の絶筆とされる作品が、24歳の時に描かれた、国宝『桜図』なのです。
ここには幻想的な美の世界が広がります。

京都国立博物館の山本英男氏は久蔵について、「等伯にない部分、繊細さ、華麗さをかなり強く持っている」といいます。

桃山時代の中期に生きながら、江戸時代に向かって行く新しさが久蔵にはありました。
久蔵は次の時代を見据えた絵を描いていた」(山本英男氏)

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

久蔵が描いた『桜図』の花には、ある特徴がありました。
花びら一つ一つが盛り上がっているのです。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

ここには「盛り上げ胡粉」と呼ばれる技法が使われています。
最初に薄く下地を塗り、そこから絵の具の塊を一気に置いていくように塗っていきます。
これを4~5回、6回繰り返すのです。

これらの花びらは今でも剥落が少なく残っている点から考えて、非常に高い技術力があった事が伺えるのです。

長谷川等伯・久蔵 天才父子の栄光と悲劇

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

久蔵は障壁画の制作に全身全霊を注ぎました。
そして約2年の歳月かけて、『桜図』を完成させました。
等伯は息子の成長をさぞ喜んだ事でしょう。

しかし、間もなく悲劇が襲います

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

久蔵が26歳の若さでこの世を去るのです。
一説には裏で狩野派が糸を引いていたともいわれますが、真偽の程は定かではありません。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

この『楓図」と『桜図』には、期待すべき、そして最も頼るべき長男を失った人たちの3つの悲劇が複雑に絡まりあっているのです。

楓図』はまさに父の渾身の作です。
浄土のような世界の中で、太い老木は引き裂かれるように枝を伸ばしています。
根元には萩やケイトウ、菊などの秋の花が、画面に彩りを添えています。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

父と子の二枚の国宝が並んでいます。
まるで父の偉大な楓が、息子の桜へと手を差し伸べるかのように。

桜の木も細い枝を精一杯伸ばしています。
偉大な父に一歩でも近づこうとするように。

まるで言葉を交わすように、呼応し合う二枚の障壁画です。
それこそが、天才親子の切なる願いだったのかもしれません。

長谷川等伯 もう一つの国宝

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

その果てに生まれたのが、長谷川等伯のもう一つの国宝、《松林図屛風》です。
故郷の七尾の松林を描いたものだと考えられています。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

ここに描かれている松も、互いに手を差し伸べあっているようです。
奥に薄く描かれた松は、まるで現世に別れを告げるかのように、大気の中へと溶けていこうとしています。

久蔵が亡くなって17年後、等伯は72歳でこの世を去ります。
家康の命により江戸に赴き、その到着からわずか2日後の事でした。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

楓図』と『桜図』は、最初で最後の父と子の共演でした。
深まる秋と春の盛りと。
そこには喜びと悲しみが込められているのです。

今回の記事はここまでになります

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

コメント

  1. […] と、今回の記事はここまでになります。 この続きはパート2にて。 こちら☚からご覧ください。 […]

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