2026年1月20日にテレビ東京で放送された「開運!なんでも鑑定団」の【志野焼と織部焼の香合8点】についてまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
*画像出展元:テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」より
安土桃山時代の幻の焼物 志野焼と織部焼

安土桃山時代。
千利休(1522-1591)が詫茶を大成すると、茶道具が全国で盛んに作られるようになった。

特に美濃地方(岐阜県南部周辺)では趣向に富んだ焼き物が続々と誕生した。
『志野焼』と『織部焼』である。

志野焼は日本で作られた、初めての白い焼き物である。

この落ち着いた光沢を持つ独特の白は、美濃特有の柔らかいもぐさ土に長石釉をかけ、大釜で数日間焼き続けることで生まれる。

ゆず肌と呼ばれる、針先で開けたのような小さな穴。

それはまるで降りしきる雪のよう。

さらに志野焼の画期的な点は、初めて焼き物に下絵付けを施したことであろう。

それまで文様を表現する場合は、型で押す印花(いんか)や線彫りが主であった。

しかし、志野焼では褐鉄鉱(かってっこう)の一種である鬼板(おにいた)を細かく砕いた顔料と筆を用いることで、より自由な絵画表現が可能となった。
更に上からかけた長石釉により、絵がにじまない効果も生んでいる。

筆運びは実に奔放。
釉薬(うわぐすり)のムラによりところどころ擦れて見えるが、それがかえって水墨画のような趣を醸し出している。

茶碗や香合、水指などの茶道具。

向付、ぐい呑みなどの食器も作られた。

しかし、より量産が可能な連合式登窯が登場すると、大窯まで作られていた志野焼は次第に衰退していった。

代わって現れたのが『織部焼』である。

千利休の亡き後、豊臣秀吉の下で茶陶生産の指導者となった美濃の武将・古田織部(1544-1615)は、これまでとは違う全く新しい美を追求した。

まず目を奪われるのは、大きく歪んだ造形。

侘茶の対極ともいえる華やかさと武家の力強さを兼ね備えた独自の美意識が見て取れる。

鮮やかな緑の織部釉や黒釉を大胆にかけ流している。

また力強くのびのびとした絵付けは時に抽象化され、まるでモダンアートのごとく。

織部焼はまさに爛熟した桃山文化を象徴する焼物であった。

しかし1615年の大坂夏の陣で、古田織部が豊臣方に内通したとの疑いをかけられ自刃すると、織部焼も衰退。

製作された期間はわずか30年ほどであった。
志野焼と織部焼の香合8点

改めて依頼品を見てみよう。
桃山時代の香合8点である(香合とは茶会の席でお香を入れる器のこと)。
依頼人がこれらを揃えるために使った金額は総額は300万円にのぼるという。

志野焼が2点。

やわらかな白い肌に奔放な筆致で文様が描かれ、特徴的なゆず肌も見られる。

こちらの3点は志野焼から織部焼の過渡期に作られたもので、通称『志野織部』。

全体的に釉薬が薄くかけられ、くっきりと浮かび上がった文様はどれも力強い。

そして織部焼が3点。

鮮やかな織部釉がかけられ、絵付けも実に大胆。

造形にも工夫が凝らされている。

志野焼・織部焼、いずれも製作期間が短く”幻の焼物”といわれているが…
果して鑑定やいかに?
本物 500万円


おぉ!500万円!

「志野、志野織部、織部、都合8点。桃山時代の物に間違いございませんね」

「まず志野の香合。長石釉がたいへんによく溶けておりまして、」

「高台を見ますと、削り出された薄い畳付(たたみづき)が見られますね。志野でも特に早い時代に作られたものであろうと考えます」

「そして織部。この形、たいへんに変わっておりますね」

「蓋のつまみを見ますと、植物のヘタのようなので、果実を三方割りの形に仕上げたもんだろうと思う。それまでの日本の焼き物にはなかった形なんですよ」

「いかに斬新な意匠というものを考案してたか、これで分かりますね」

「これだけのコレクションなさるってことはね、深い教養と優れた骨董商との交流がなければなし得ないと思う。その努力に対して敬意を表します」
今回の記事はここまでになります。
