2026年2月17日にテレビ東京で放送された「開運!なんでも鑑定団」の【中国で生まれ世界に広まった焼物・染付】【最後の文人画家・富岡鉄斎】についてまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
*画像出展元:テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」より
中国で生まれ世界に広まった焼物 染付

白と青のコントラストが美しい「染付」。

染付は白磁にコバルトを主成分とした顔料で絵付けしたもの。

今や世界各地で作られており、最もポピュラーな焼き物の一つである。

誕生したのは中国・元時代のこと。

当時最大の製陶地だった景徳鎮。

この地では主に宮廷に献上するための白磁を作っていた。

その後14世紀に入り、イスラム圏からコバルト顔料がもたらされると、その発色の良さから染付が主流となった。

また一説には仏教の七宝の一つである「瑠璃」の色を焼き物に写し取りたいとの思いから生まれたとも考えられている。

続く明時代、景徳鎮に官窯(政府が主導で設立・運営した窯)が置かれた。

これにより染付は飛躍的に発展し、精緻で優美な作品が次々と作られた。
しかし17世紀になると、明王朝が衰退し景徳鎮の官窯は消滅。

代わって台頭したのが”民窯”であった。
そこでは自由闊達な作陶が行われるようになり、それまでとは全く趣を異にする染付が登場する。

その多くは皿や鉢などの日用雑器であった。

素地は分厚く、青の発色もあまり良くないが、何の制約も受けなかったため絵付けは実に伸び伸びとしている。

これらは世界各地に輸出され、日本では茶人たちがその不完全さにわびさびに通じる美を見出し、茶道具として珍重したのであった。

このように”明時代末期に景徳鎮の民窯で焼かれた染付”を古染付という。

一方で、日本において染付が作られるようになったのは、古染付の到来と相前後する江戸時代初期の1610年代のこと。

朝鮮から渡来した陶工・李参平(りさんぺい)。

彼が肥前・有田の泉山に磁器に適した陶石を発見し、天狗谷で窯を開いたことに始まる。

ここで焼かれた染付は近隣の伊万里港より各地に運ばれたことから伊万里焼と呼ばれた。

伊万里焼はその後、技術革新が進み大きく花開く。

それでもまだ試行錯誤の段階にあり、特に1610年代から40年代にかけてのものを初期伊万里という。

紋様は古染付を手本にしており山水や人物、植物が多い。

しかし色が黒みがかっていたり、ムラがあったりと安定していない。
また素地はぼってりとしている。

中には自らの重さで歪んでしまったものも。

しかしこれも染付と同様、現在ではその素朴さや抒情的な美しさが高く評価され、愛好家垂涎の的となっている。
染付の皿

改めて依頼品を見てみよう。
5枚組の染付の皿である。

中央に楼閣、左奥に帆掛船、右に松が描かれている。
しかしその松は曲がりくねっており、実に奔放である。

青の発色はまちまちで、よく見ると形は微妙に歪んでいる。

このことからすると、中国のものであれば古染付。日本のものであれば初期伊万里か?
しかし、どちらも人気が高く偽物も多いが…
果して鑑定やいかに?
初期伊万里の名品 250万円!


なんと!250万円!

「中国・明時代の古染付ではありません。江戸時代前期・1640年代に作られた初期伊万里です」

「創成期の伊万里焼はそのほとんどが大皿なんですよ」

「これは小型でね。直径14.5cmで通称五寸皿。それが五枚揃って無傷、新発見ですね」

「コバルトが鮮やかな発色でね、松を強調した山水楼閣文様です。湖に浮かぶ帆掛船、空を飛ぶつがいの鳥。日本的な詩情溢れる、心の吸い込まれるような風景ですね」

「裏がまたいい。口径に対して小さめの三分の一高台」

「窯の中に敷いた砂が付着した砂高台」

「そして素焼せずにいきなり釉薬を生がけしたために、陶工の指跡が残っている。温もりのある状態ですね。大切になさってください」
最後の文人画家 富岡鉄斎

富岡鉄斎(1836~1924)は最後の文人画家にして、近代日本画の巨人である。

1836年、京の商家に生まれる。
幼い頃から国学、漢学、儒学などを修めた。

19歳の頃から絵も取得。

さらに尼僧にして歌人の大田垣蓮月(おおたがき れんげつ)の書生となり、その薫陶を受けた。

若くして儒学者として認められたが、生活は苦しく、絵を描いて糊口をしのいだ。

やがてその絵が高く評価されるようになったが、

鉄斎自身はあくまで”儒学者”であるとの思いが強く、絵の余白に書き添える詩文(賛)に言及し、

「絵を見るなら先ず賛を読んで欲しい」と求めた。

例えば、こちらの作品。
仏教の最高段階に達した18人の羅漢が碁を楽しんでいる。

この絵の賛には、上記のように書かれている。
「悟りとは俗世も仏法も関係なく普遍的である」ということか。

座右の銘は「万巻の書を読み、万里の道を行く」。
すなわち「あらゆる書物をことごとく読破し、広い世界に飛び出し見識を深める」こと。

鉄斎はそれを実践するべく、北は北海道から南は鹿児島まで精力的に旅して歩いた。

その土地土地の歴史や風土を学び、目にしたものを即興的に絵にすることもあった。

またその逆に、頭の中にとどめて後日再構築し、心の赴くままに筆を走らせることもあった。

そのため”霊峰富士”も鉄斎の手にかかればご覧通り。
右隻が雲をたなびかせた全景なのに対して、

左隻はというと、実際の景色とは異なるゴツゴツした岩が続く異形の山頂が。

そして奇岩が林立する群馬県・妙義山ともなれば…。

山中にある4つの石門を大胆にデフォルメし、まるで仙人が暮らす理想郷のごとき世界を生み出した。

鉄斎の旅は神話や故事の世界にまで及ぶ。

それらはあまたの絵師が挑んできた画題だが、従来の定型に陥ることは全くなく、躍動感に満ちている。

古典の真髄を我が物とし、空想の中で悠々と遊ぶことのできた鉄斎ならではの境地といえよう。

その画力は老いるほどに充実し、89歳で亡くなるまで絵筆を握り続け、生涯に1万点を超える作品を残した。
前人未踏の画行は、まさに”近代日本画の巨人”と呼ぶに相応しい。
富岡鉄斎の掛軸

改めて依頼品を見てみよう。

富岡鉄斎の掛け軸で、表具を含めると縦260cmあまりの大作である。

豪快な筆致で滝の前に集う十六羅漢が描かれており、その表情はいずれも実に柔和である。

賛にはこのように書かれている。

落款からすると82歳の作のようだが…
果して鑑定やいかに?
まさかのニセモノ!


なんと、3万円!

「残念ながら富岡鉄斎の作品ではありません」

「偽物が非常に多いことでも知られています。クセの強い画風っていうのが形だけであれば真似しやすいように思われて、それでたくさん作られたんだと思います」

「これ十六羅漢を描いてます。いわゆる仏画になりますけれども、まあ一種の人物画でもあります」

「顔ですとか手ですと、よれよれっとした勢いのない輪郭線。あとは人の表情を描く上で最も大切だろう目ですね」

「目もはっきりと描かれていない羅漢もいますし、まあその辺りを見ても富岡鉄斎の描く人物ではないと思います」
今回の記事はここまでになります。

