【長谷川等伯・久蔵】楓図・桜図①【美術番組まとめ】

美の巨人たち

2017年10月14日にテレビ東京にて放送された「美の巨人たち」の【長谷川等伯・久蔵「楓図」「桜図」】の回をまとめました。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。

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イントロダクション:父と子で描いた障壁画

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

京都・東山にある智積院
前身は「祥雲寺」という禅寺でした。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

この智積院の宝物館に四枚の障壁画が納められています。
長谷川等伯、が描いた《楓図壁貼付》《松に黄蜀葵(とろろあおい)図壁貼付》《松に秋草図屏風》。
そしてその息子の長谷川久蔵(きゅうぞう)が描いた《桜図壁貼付》です。
これら四枚の『智積院障壁画』はすべて国宝に指定されています。

今回はその中から『楓図』と『桜図』を取り上げます。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

日本美術を好きな方で、彼の名を知らない人はいないでしょう。
ご存知、長谷川等伯は安土桃山時代に京都を舞台に活躍した絵師です。

その息子の長谷川久蔵はというと、父の等伯ほど知名度はないかもしれません。
しかし、彼の画力は父をも超えるといわれ、将来を嘱望された天才でした。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

この2枚の『楓図』、そして『桜図』には、我が子を亡くした三人の壮絶なストーリーが隠されています。

息子、鶴松を失った天下人・豊臣秀吉
天下の御用絵師、狩野永徳に先立たれた狩野松栄
そして長谷川等伯もまた息子・久蔵を亡くしています。

国宝『楓図』長谷川等伯


国宝《楓図》
文禄元年(1592)年頃
長谷川等伯
京都、智積院

縦約1メートル70センチ、横約5メートル60センチに及ぶ巨大な壁貼り付けの障壁画です。

大画面に描かれているのは楓の巨木です。
その枝ぶりはまるで大きな鳥が羽を伸ばしているかのようです。

散りばめられた紅葉の鮮やかさや、根元に描かれている秋の草花が華々しさを演出しています。

国宝『桜図』長谷川久蔵


国宝『桜図』
文禄元年(1592)年頃
長谷川久蔵
京都、智積院

一方、等伯の息子・久蔵が描いたのは画面いっぱいに広がる春爛漫の風情です。
八重桜が満開の時を迎えています。

久蔵が24歳の時に描いた傑作です。
この『桜図』を描いた翌年に亡くなってしまいますが、それをふまえて見ると、満開の喜びと、やがてそれが散ってしまう儚さも込められているように感じられます。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

描かれている桜をよく見てみると、花びらの一枚一枚が盛り上がって描かれています。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

この2枚の障壁画は、天下人豊臣秀吉からの命を受けて描かれました。
等伯久蔵親子にとっては一世一代の大仕事です。

では、どのような経緯で秀吉から直々の命がきたのでしょうか。
まずは等伯の生い立ちから振り返ってみます。

下剋上の絵師・長谷川等伯

長谷川等伯は1539年、能登国七尾(現在の石川県七尾市)に生まれます。

武家の出身でしたが、幼少の頃に染物屋に養子に出されます。
その染物屋の養父から絵の手ほどきを受けたと伝わっています。


《善女龍王図》1564年
長谷川等伯
石川県七尾美術館蔵

七尾にいる頃、等伯ではなく「信春」という画号を用い、仏画を専門に描いていました。
(*”信春”の読み方は「しんしゅん」と読むのか、「のぶはる」と読むのかははっきりしていません)

しかし養父母が亡くなったのをきっかけにある決心をします。
絵師として大成するために京都へと向かうのです。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

その頃の京都画壇は、御用絵師集団・狩野派の独占状態にありました。
特に狩野永徳は、織田信長・豊臣秀吉に愛された天才絵師でした。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

京にのぼった等伯が、どのように過ごしたのか、詳しい記録は残っていません。
彼の名が歴史の表舞台に登場するのが大徳寺です。
この時、等伯51歳でした。

大徳寺は天皇家をはじめ、織田信長や豊臣秀吉ら名だたる武将たちとゆかりが深い名刹です。

ここで等伯は一世一代の大勝負に出ます。
在ろうことかこの由緒正しき寺に無断で侵入、そこの襖に”勝手に”水墨画を描くという大胆な行動を取ったのです。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

それがこちらの《山水図襖》です。
襖紙に描かれた桐の葉の文様は、秀吉からの許しがなければ使えないものです。

あろうことか等伯はその大事な文様の上に山水図を描きます。
彼は桐の葉を、なんと山水に降りしきる雪に見立てたのです!

自分の名を売り出すために大胆な行動を取った等伯
この行為は現代でも不法侵入・器物損壊に問われるものです。

ところがあまりの出来栄えの見事さにお咎めなしとなるばかりか、逆に大徳寺から絵画制作の正式オファーがくることになるのです。

これは本当にすごい!というかカッコいい!

『龍図』長谷川等伯作 天正17(1589)年

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

こうして任されたのが大徳寺山門の二階部分の装飾でした。

苦節18年。蓄えた力を発揮する場となったのです。
51歳の等伯が天井に描いた巨大な龍は、力みなぎる野太い線、何かに挑むような躍動感に満ちています。

そんな等伯の名はやがて京都中に知れ渡るようになり、ついには狩野永徳をも脅かす存在となっていきます。

そして、等伯も想像していなかった大仕事が舞い込んできます。
それが「御所」での仕事でした。

と、今回の記事はここまでになります。
この続きはパート2にて。
こちら☚からご覧ください。

コメント

  1. […] 今回の記事はパート2になります。 前回のパート1はこちら☚からご覧ください。 […]

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