2023年12月27日にBS日テレにて放送された【京都・天下人が愛した美 北川景子が迫る名宝の秘密】の内容をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
この記事では「天才絵師 長谷川等伯」についてまとめていきます。
”国宝名画”誕生の裏側
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
今回は東山区にある智積院に作品が収蔵されている絵師について見ていきます。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
その絵師とは長谷川等伯です。
等伯はあの豊臣秀吉にも認められた天才絵師です。
能登の国の七尾から京に上り、その当時画壇を席捲していた狩野派、そして派を率いる狩野永徳と覇を競い合いました。
そして一代にして長谷川派を築きました。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
代表作は東京国立博物館所蔵の国宝《松林図屏風》です。
霧に包まれた松林を幻想的に描いた傑作で、日本水墨画の到達点といわれる作品です。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
等伯とその一門の作品は、2023年にオープンしたばかりの宝物館に収められています。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
ここにある障壁画は、豊臣秀吉からの命で描かれたものです。
55面、そのすべてが国宝に指定されています。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
この障壁画は、秀吉が3歳で亡くなった長男・鶴松の菩提を弔う目的で、等伯一門に描かせたものです。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
その一つが《松に秋草図》です。
巨大な松の木は、画面からはみ出さんばかりの勢いで描かれてます。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
草花は優雅に風に揺れています。
非常に繊細なタッチです。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
この作品のように色鮮やかで、金箔が貼られた絵を金碧画(きんぺきが)といいます。
秀吉は長谷川一門に禅宗寺院の障壁画を依頼しました。
しかし通常、禅宗寺院は水墨画しつらえる場所です。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
秀吉はそういった慣例を気にせず、禅宗寺院に金碧画をしつらえさせたのです。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
秀吉の命でこれらの障壁画軍が描かれたのは1590年代。
二条城の障壁画が描かれる約30年前のことです。
1590年代は”狩野派の全盛の時代”でした。
そんな中で等伯は狩野派を差し置いて、秀吉からの仕事を勝ち取ったのです。
しかし、ここで狩野派と同じことをしては意味がありません。
そこで等伯はオリジナリティーを出していきます。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
智積院の障壁画の中でも最も有名なのがこちらの《楓図》です。
松の巨木のダイナミックさもありながら、草花の細やかな美しさも共存している作品です。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
可能な限り画面に草花を描いていき、画面を穏やかな雰囲気にしているのです。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
狩野永徳の作品と比べてみます。
どちらも巨木が主役の作品ですが、等伯の作品の方が鮮やかで優しい雰囲気になっているのが分かります。
ダイナミックさと繊細さが共存した、これまでにない作風となりました。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
等伯は1539年に能登・七尾に生まれます。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
20代の頃から絵仏師(仏画を手掛ける絵師)として地元で活躍します。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
そして33歳の時に京へのぼり、天下一の絵師を目指します。
しかし都での絵師の仕事は狩野派の独占状態でしたので、大きな仕事を得るのは至難の業でした。
そんな状況下で等伯がチャンスを掴むのは50歳を過ぎてからのことでした。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
等伯がチャンスを掴むきっかけとなった作品が、圓徳院(えんとくいん)にあります。
圓徳院は秀吉の妻・ねねが晩年を過ごした場所です。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
それがこちらの《山水図》、重要文化財に指定されています。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
柄付きの襖の上に、山水が描かれています。
じつはこの作品にはあるエピソードがあります。
元々この襖絵は京都の大徳寺の三玄院というお寺で描かれたものでした。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
等伯は大徳寺の住職に「方丈の襖絵を描かせてほしい」と何度もお願いしていました。
しかし住職は「お寺の方丈は修行の場なので、そのようなものは必要ない」と断り続けます。
そこで等伯は驚きの行動に出ます。
住職の留守を見計らって無断で寺に忍び込み、許可なく勝手に襖にこの絵を描いてしまったのです。
本来であれば処罰されるレベルの出来事ですが、作品のあまりの出来栄えに、結果お咎めなしとなったのです。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
等伯は襖の桐の紋を降りしきる雪に見立てて、そこに山水を描き、冬の景色を表しました。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
その後、52歳の時に御所の仕事を得ようと画策します。
しかし永徳の妨害が入り、失敗に終わってしまいますが、等伯は狩野派をも動かすような存在になっていったのです。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
その後永徳は1590年に亡くなり、狩野派の勢いは弱まります。
それから3年後、等伯は天下人秀吉からの仕事のオファーを得て、智積院の障壁画を手掛けるのです。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
こちらの《桜図》は等伯の息子、長谷川久蔵の作品です。
満開の桜が画面いっぱいに咲き誇っています。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
桜の花は顔料を盛り上げて、立体的に表現されています。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
久蔵は等伯以上の才能を持つといわれ、長谷川派の跡取りを目されていましたが、《桜図》を描いてまもなくこの世を去ります。
一説には狩野派によって暗殺されたとも…
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
久蔵の死から5年後の1598年、秀吉もこの世を去ります。
大切な息子と、自分を押し上げてくれた恩人を続けて亡くした等伯。
しかし、絵の情熱は消えませんでした。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
御所の西にある本法寺。
京に上ったばかりの等伯はこのお寺にお世話になっていました。
ここに晩年の等伯の大作があります。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
それがこちらの《仏涅槃図》です。
縦8メートル、横5.2メートルにも及ぶ大作です。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
描かれているのは、お釈迦様が亡くなる(入滅の)場面(入滅)です。
横たわるお釈迦様の周りでは、弟子たちが嘆き悲しんでいます。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
人間でけでなく、動物たちも同様に嘆き悲しんでいます。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
この作品は息子の久蔵の供養のために、61歳の時に描いたものです。
等伯はこの作品が完成すると宮中に持ち込み、新たな支援者となってもらうため、帝に披露したといいます。
老いてなお勢いが止まらない等伯。
晩年になってもその画風は更に進化していきます。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
こちらは《柳橋水車図屏風(りゅうきょうすいしゃずびょうぶ)》という作品。
一目でそれまでの等伯の作品とは画風が違うのが分かります。
真ん中に大きな金色の橋がかかり、その周りに柳が描かれています。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
この画題は平安時代以来の”和歌のイメージ”が元になっているといいます。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
この図柄はその後の工芸品のデザインに採用されるほど、人気を博しました。
画像出展元:テレビ番組「京都・天下人が愛した美」より
その後等伯は、徳川家康に招かれ江戸へと向かいます。
しかしその道中で病に罹り、江戸到着後間もなく亡くなってしまいます。
絵の名門家系に生まれたわけでもなく、最初は地方の一絵師であった等伯。
そこから都へ居を移し、自らチャンスを掴み、最終的には天下人から仕事をもらうまでになりました。
等伯の粘り強さと信念の強さが、彼の名と作品をを後の世まで轟かせることになったのです。
今回の記事はここまでになります。