2025年6月24日にテレビ東京で放送された「開運!なんでも鑑定団」の【奇想の浮世絵師 歌川国芳/俳人 小林一茶】についてまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
*画像出展元:テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」より
奇想の浮世絵師 歌川国芳
漆黒の闇に浮かぶ巨大な骸骨。
この作品では金魚がシャボン玉を売っている。
こちらでは裸の男たちが集まって、なんと人の顔になっている。
これらバラエティに富んだ作品。
描いたのはすべて一人の絵師で、その名を歌川国芳という。
反骨心とユーモアに溢れた奇想の浮世絵師である。
歌川国芳は1797年、日本橋の染物屋に生まれる。
15歳で歌川豊国(うたがわ とよくに)弟子入りし、浮世絵の基礎を学んだ。
弟子入りしてから20代後半までは鳴かず飛ばずの国芳であったが、31歳のときに突如脚光を浴びる。
『水滸伝』の豪傑達を描いたこの連作は迫真と迫力に満ちており、たちまち江戸っ子たちを魅了。
これがきっかけで”武者絵の国芳”と呼ばれるようになった。
その後、国芳は勢いそのままに斬新な作品を次々と送り出す。
一枚買っても鯨の頭。
二枚買っても鯨のしっぽ。
三枚買って初めて全貌が分かるこの作品は《宮本武蔵の鯨退治》。
通常三枚続きの浮世絵は一枚ずつでも鑑賞できたが、これほど大胆な構図にしたのは国芳が初めてとされている。
このパノラマの大画面は浮世絵界に革命をもたらした。
一方こちらの作品は、赤穂浪士討ち入りの図。
泰平の世に起きたビッグニュースも国芳の腕にかかれば、静謐な風景画のような美しさを保っている。
ダイナミックなだけではない、絵師としての確かな力量が伺える。
1841年、倹約を旨とした天保の改革が始まる。
その結果、役者絵や美人画も禁止の扱いを受けた。
しかしこの制限が逆に国芳の反骨心を刺激し、結果的に斬新な浮世絵を生み出した。
遊郭を描いたこの作品では、遊女も客もみな雀に仕立てた。
これは吉原に出入りする人たちを”吉原雀”と呼ぶことに由来するもので、「雀ならば文句はあるまい」と国芳は考えたのであろう。
画面を土蔵の壁に見立た役者絵は、釘でひっかいたように描いてみせた。
仮に幕府にとがめられても、「所詮子供の落書きですから」とするりと交わそうとしたのだろう。
この国芳の真骨頂ともいえる、「反骨心」と「ユーモア」が当時の江戸の人の心を掴んだのであった。
また無類の猫好きで、作画中も懐に2~3匹の猫を忍ばせ、家には亡くなった猫の仏壇もあったという。
『東海道五十三次』も猫とダジャレを組み合わせて。
二本のだしで、日本橋ならぬ「二本だし」。
大磯は猫がタコを引きずって「重いぞ」。
国芳は激動の幕末をしたたかな風刺で煙巻き、反逆精神・諧謔精神を作品に反映させながら、傑作の数々を生み出したのであった。
歌川国芳の浮世絵48点
改めて依頼品を見てみよう。
歌川国芳の浮世絵48点である。
国芳が最も得意とした武者絵で、描かれているのは江戸時代元禄期の赤穂事件を題材にした『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』。
『仮名手本忠臣蔵』は人形浄瑠璃および歌舞伎の演目としても知られている。
この物語に登場する大星由良之助(おおぼし ゆらのすけ)をはじめとする義士たち。
刀を振るって戦う者。ひと息入れている者。
火の始末をする者など、それぞれが時に凛々しく、時にユーモラスに表現されている。
果して鑑定やいかに?
全てオリジナル 144万円!

144万!すごい金額!
「歌川国芳の『誠忠義士伝(せいちゅうぎしでん)、全てオリジナルの浮世絵版画で間違いありません」
「四十七士にプラス討ち入りに加われなかった早野勘平というのがいるんですが、これを入れて48枚」
「この作品は1847年に出版されているんですが、実はこれは51枚の揃いなんですね」
「今回の依頼品なんですけれども、浅野内匠頭と吉良上野介」
「そして近松幸重の家来の甚三郎が抜けてるんですね」
「閉じていたと思われるので、色が結構綺麗に残っております」
「ただし外側の部分がだいぶ傷んでおりまして、一枚3万円と評価して144万とさせて頂きました」
「もしこれが綺麗な状態で屏風にも貼られてなくて、51枚全部揃っていれば500万以上はするだろうと思います」
心に響く十七文字 俳人 小林一茶
小林一茶は江戸時代後期を代表する俳人である。
彼の紡いだ17文字の宇宙は、優しさと素直さに満ちており、どこか哀愁を呼びながらも共感を呼ぶのは、辛酸を舐め続けた彼の人生にあるのではないだろうか。
1763年、北信濃の農家の家に生まれる。
3歳で母を亡くし、継母に育てられるも馴染めず。
長男でありながら、15歳で江戸に奉公に出された。
俳諧と出会ったのは20歳の頃。
既に腹違いの弟が家督を継いでおり、帰る家がなかったため、俳諧の世界で生きる決意を固めた。
30歳を前に俳号を「一茶」に改め、東北を皮切りに漂泊の旅に出た。
秋の夜や
旅の男の
針仕事
そして箱根の関所ではこんな句も読んでいる。
通し給へ
蚊蝿の如き
僧一人
生い立ち故か、その句からは寂寥と孤独感が漂っている。
39歳の時には父が他界するが、その後家督を継いだ弟との間で遺産相続争いが起こり、解決までに10年以上の歳月を要した。
ようやく生まれ故郷に落ち着いたのは50歳になってから。
積年の苦労もまた17文字で残している。
是がまあ
ついの栖か
雪五尺
52歳の時に24歳離れた年下の妻をめとると、4人の子宝にも恵まれる。
生まれて初めてささやかな幸せを味わった。
名月を
取ってくれろと
泣く子かな
しかしその幸せも長くは続かなかった。
子供たちはいずれも夭折し、妻にも37歳で先立たれてしまった。
露の世は
露の世ながら
さりながら
この世は朝露のように儚い。
そんなことは百も承知だが、それでもなお…。
その心からの思いが、「さりながら」の5文字に込められていると言えよう。
その後、再婚するもわずか三か月で離婚。
さらに中風を患うなか、火事で母屋を失ってしまう。
暗く冷たい土蔵の中で失意のうちに息絶えた。享年65歳であった。
しかし、彼の17文字はそのどれもが不思議と明るく、滑稽・風刺・慈愛に満ちており、今なお多くの人々から愛され続けている。
小林一茶の書
改めて依頼品を見てみよう。
小林一茶の書である。
文頭に「東都へかへる人をおくる」とあり、その後に一句。
むくかたや
一足
ツツに花盛り
足が向く方に一歩一歩進めると、目の前にに咲き誇る花々が広がっていく。
風景の捉え方が心の持ちようと一体になって、実に素朴な一茶らしい。
果して鑑定やいかに?
まさかの本物 300万円!

まさかの300万円!
「小林一茶の書、間違いございません」
「江戸へ向かう人へのはなむけの句が書かれているわけです」
「『閏正月 十五日』、旧暦の閏月の正月を探してみますと、1822年ではないかと」
「書を見ますとですね、『かへる人をおくる』。非常に伸びやかな線。一茶の書の特徴なんですね」
「『むくかたや』あたりがですね、墨継ぎとかすれとのリズムが非常に綺麗に出ております」
「特に名前のですね、『志那なのの一茶』。これはもう本人でなければ書けないような、自然な運筆で書かれております」
「『一茶発句全集』というものが出ておりまして、この句は載っておりません。つまり新発見の一茶の発句であろうと考えられます」
「表具は紙表具で、いかにも粗末な表具なんですけども、作品が書かれたときの表具がそのまま伝わってると思います。大切になさってください」
今回の記事はここまでになります。