2018年3月4日にNHKで放送された「日曜美術館」の【イレーヌ ルノワールの名画がたどった140年】の回をまとめました。
今回の記事はパート3になります。
前回のパート2はこちら☚からご覧頂けます。
番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
「イレーヌ嬢」の返還
1944年6月、アメリカを中心とする連合軍はドイツ軍が守りを固める海岸線を突破します。
かの有名な「ノルマンディー上陸作戦」です。
西ヨーロッパの解放を目指す連合軍の中に、美術品の奪還を任務とした部隊がありました。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
そのメンバーは美術史家や学芸員、彫刻家らで構成されました。
彼らが中心となって、ヨーロッパ中で略奪された美術品が取り戻されました。
『イレーヌの肖像』は終戦後にベルリンで発見されました。
ナチスドイツは戦闘に敗れて撤退する際に、わざと美術品を破壊したりしている状況だったので、「イレーヌの肖像」が無傷で見つかったのは、まさに”不幸中の幸い”でした。
しかし今なお数万点の作品が、当時の略奪により行方不明となっています。
”絵画の世界の第二次世界大戦”はまだ終わっていないのです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
発見された『イレーヌの肖像』は、1946年、戦争を生き抜いたイレーヌ本人のもとに奇跡的に返還されました。
しかし、そのわずか3年後に作品は売却されます。
売却した理由ははっきりと分かっていません。多摩美術大学の西岡教授は「(イレーヌの肖像)もう見ていられなかったのでは?」と言います。
確かに絵のモデルはイレーヌ自身ではありますが、この絵を見ると収容所で命を奪われた自分の娘のことを思い出しまったのかもしれません。
親子という事で容姿も似ていたでしょうし、この生き生きとしたルノワールの肖像画を見るのが耐えられなかった、と考えることもできます。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
イレーヌは晩年は南フランスへ移住します。そして1963年に91歳でこの世を去ります。
失った家族について話す事は、生涯なかったといいます。
『イレーヌの肖像』ビュールレの元へ
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
スイス最大の都市、チューリヒ。
ここにビュールレ・コレクションと呼ばれる、邸宅を改装した美術館があります。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
『イレーヌの肖像』の新たな持ち主となったのがエミール・ゲオルク・ビュールレ。
20年の間に600点からなる、世界屈指のプライベートコレクションを築き上げました。
ビュールレは実際に自分の目で見た作品しか購入しなかったといいます。
非常に鋭い感受性の持ち主で、優れた作品を見極めることができたのです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
ビュールレはドイツに生まれ、10代の頃から美術に関心を抱いて育ちました。
やがてスイスに移り、機械の製造で成功を収めます。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
きっかけは兵器でした。世界的ベストセラーになったがエリコン20mm砲。今なお使用されている兵器です。
これにより事業は成長。1940年代、ナチスドイツへの納入業者になります。
莫大な富を得たビュールレは、美術品を収集し始めます。
そのコレクションは彼の死後、美術館として公開されました。
そのビュールレ・コレクションの一部を見ていきましょう。
《睡蓮の池、緑の反映》1920-26年
クロード・モネ
ビュールレ・コレクション
モネはビュールレが印象派に惹かれるきっかけになった画家でした。
《赤いチョッキの少年》1888-90年
ポール・セザンヌ
ビュールレ・コレクション
セザンヌもビュールレが愛した画家でした。
《赤いチョッキの少年》は世界的に知られたセザンヌの代表作です。
その中でも《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》はビュールレにとって特別な作品でした。
ビュールレ自身がこの絵が辿った歴史的背景をどこまで知っていたかは分かりません。
分かっているのは、この作品を娘の部屋に飾り、毎日のように眺めていたという事です。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
激動の時代を見てきた『イレーヌの肖像』。
ビュールレに買い取られ、ついに安住の地を得ることができたのです。
>>井浦新さんのコメント
コメント
[…] 今回の記事はここまでです。 パート3では『イレーヌの肖像』がどのようにイレーヌの元へ戻り、現在の所蔵先であるビュールレ・コレクションとなっていったのかをまとめます。 こちら☚からご覧いただけます。 […]