2025年6月10日にテレビ東京で放送された「開運!なんでも鑑定団」の【青木木米】についてまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
*画像出展元:テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」より
江戸後期を代表する文人 青木木米
時には華麗な焼物を。
時に雄大な山水図を。
青木木米(1767~1833)は優れた京焼の陶工にして絵師でもあった、江戸時代後期を代表する文人である。
1767年、京の生まれ。
生家が祇園の茶屋だったことで、若い頃から店を訪れる文人墨客の薫陶を受け、
漢詩・書画・篆刻(てんこく、印章を作成する行為の意)など高い素養を身に付けた。
いつ頃から作陶するようになったのか定かではない。
しかし一説には30歳の頃、豪商・木村蒹葭堂(きむら けんかどう)のもとで、
中国の陶芸書『陶説』を目にし、感銘を受けたことがきっかけといわれている。
その後、京焼で初めて磁器焼成に成功した陶工・奥田頴川のもとで修業するや、
たちまち師を凌駕するほど上達。
39歳のとき、粟田御所の御用窯を任された。
さらに翌年、加賀藩から招聘を受け、すでに途絶えていた九谷焼の再興に尽力。
一方で頼山陽(らい さんよう)や田能村竹田(たのむら ちくでん)ら、当代一流の文人と親しく交わり、
50歳の頃から積極的に画も描いた。
その多くは友人への贈り物であったが、いずれも奔放でありながらも格調高く、教養の高さを物語っている。
京焼の名工 青木木米
だがやはり木米の真骨頂は焼き物であろう。
鮮やかな色絵。
気品漂う青磁。
透き通るような白磁。
中国陶磁を独自に研究し、その技法や文様を自らのものとした上で生み出したこれらは、一人の陶工が作ったとは思えぬほどバラエティに富んでいる。
こちらの染付の重箱は、明時代の作を手本にしたものだが、
提げ手の付け根を二股にするなど、造形が実に斬新である。
また木米は当時文人の間で煎茶道が流行していたことを受け、
水注から茶心壺に至るまで、
様々な煎茶器を手がけた。
こちらの煎茶碗は、胴に茶にまつわる詩が赤絵でびっしりと書き込まれている。
漢詩に通じ、書に秀でていた木米ならではの装飾である。
湯を沸かすための道具である涼炉(りょうろ)にも趣向を凝らし、風の通り道を窓に見立てたこんなものも。
中から顔をのぞかせているのは、中国東晋時代の書家・王羲之である。
文人木米の面目躍如たる、遊び心に溢れた傑作と言えよう。
骨董商だった祖父が遺した 青木木米の香炉
改めて依頼品を見てみよう。
青木木米の香炉である。
鮮やかな金彩が施されており、蓋のつまみには二羽の鶏が。
胴には当時の京で用いられていた暦の一つ、院御経師(いんのみきょうじ)暦が細かな筆致で描かれており、いかにも木米らしい。
高台の内側には、「文化十年癸酉」「聾 木米作」と刻まれているが…
果して鑑定やいかに?
残念 偽物

残念!1万円!
「かなり程度の低い偽物です」
「作り方が乱雑でね。胴に書いてある暦、これがひどい」
「木米は字というものに極めて厳格なんですよ。略してテンテンテンテンって書いてあるようなことはまずありえない」
「裏に『聾 木米』って書いてございますね」
「木米っていう人はね、燃え盛る窯に耳を近づけて、炎の音から温度を読み取った。そのために耳が聞こえなくなった」
「文化十年、木米は47歳。まだ耳は不自由になってない。辻褄が合わないんです」
(木米の耳が不自由になったのは一説によると1824年(57歳)時とのこと)
「決定的な間違い。『九九隣』っていう号が書いてございますね。で、32歳の時から盛んに使ってきた号なんですけども、「りん」という字は魚へんじゃなきゃいけない(九々鱗、きゅうきゅうりん)。これは大きな間違いでしたね」
今回の記事はここまでになります。