2020年2月23日にNHKで放送された「日曜美術館」の【ゴッホ 草木への祈り】の回をまとめました。
今回の記事はパート2になります。
前回のパート1はこちら☚からご覧いただけます。
番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
フランスでの生活
《ジャガイモを食べる人々》を描いてから一年後の1886年、ゴッホは弟のテオを頼りフランス・パリにやってきます。
パリではカミーユ・ピサロ、ポール・シニャックら印象派・新印象派の画家やロートレックなどと交流を結びます。
その交流の中でゴッホの画風はオランダ時代の暗い色調から、明るい鮮やかな色彩表現に変わっていきます。
パリで2年を過ごしたのち、1888年には南仏のアルルへと向かいます。
《ひまわり》をはじめとするゴッホの代表作の多くは、このアルルで描かれました。
《アルルのはね橋》1888年
フィンセント・ファン・ゴッホ
オランダ、クレラー=ミュラー美術館蔵
こちらの作品はタイトルの通り、アルルに今もあるはね橋を描いたゴッホの代表作の一つです。
春の陽光に満ちたみずみずしい雰囲気の中、川辺で女性たちが洗濯をしています。
そこでできた水面の波紋と、橋の上を行く馬車の動きとが響きあい画面にリズム感をもたらしています。
しかし作品は一枚も売れず、生活も弟テオからの仕送りに頼るほかありませんでした。
ゴッホは苦悩していたのです。
そんな中でゴッホはパリ滞在中に目にした「日本の芸術」を思い出します。
《草むら》ファン・ゴッホ
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
とある一枚の「草の絵」にゴッホは心を奪われました。
ただ”一本の草の芽”と真摯に向き合るその姿勢に感銘を受け、テオへの手紙の中でも『これこそ真の宗教』だと綴っています。
この「草の絵」を部屋の壁に貼っては、飽きることなく眺め続けたといいます。
その影響を受け、ゴッホ自身も”草”をモチーフにした作品を描いていきます。
《草むら》1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ
ポーラ美術館蔵
その内の一枚が、神奈川県箱根町にあるポーラ美術館が所蔵しています。
そこにはただただ”草むら”だけが描かれています。
ポーラ美術館の学芸員の方によると、「イーゼルを立てて描いたというよりは、もしかしたら地面に座って、草むらと近い視点で自分の隣にある草を描いているのではないか」話しています。
かなり勢いのある筆遣いで描かれており、ほとんど下書きもされていません。
よく見ると、草の一本一本まで細かく塗り分けられています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
この作品の裏面には、ゴッホのサインが残されています。
滅多にサインを書き入れない彼がこの作品にサインを残したという事は、それだけ思い入れのある作品であったという事が伺えます。
ゴッホと糸杉
この頃のゴッホは病気を発症しており、錯乱状態にありました。
あの有名な「耳切り事件」が起きたのもこの頃です。
ゴッホは自ら療養のために、南仏サン・レミ・ド・プロヴァンスの病院に入院する事を決めます。
そこで新たなモチーフと出会うのです。
《糸杉》1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ
メトロポリタン美術館蔵
それが病室の窓から見た”糸杉”でした。
ゴッホは糸杉を描きたい感情に駆り立てられます。
この《糸杉》では、彼独特のタッチで糸杉がうねるように描かれています。
天を目指して伸びるその様は、画面をはみ出すほど大きな迫力です。
下草は黄色や黄緑色で描かれ、まるで糸杉を支えるかのようにうごめいています。
糸杉という木自体は、彼のいた南仏では墓場などに植えられる「死」を象徴する木でした。
ゴッホはそうと知っていて、糸杉を描いたのでしょうか?
彼は弟テオへの手紙の中で『糸杉はプロポーションも美しく、まるでエジプトのオベリスクのようだ』と書き記しています。
「オベリスク」とは、古代エジプトで太陽神の象徴とされるものです。
ここからも分かるように彼は「死の象徴」としてではなく、「祈りを捧げる信仰の対象」として糸杉と向き合っていたのです。
《星月夜》1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ
ニューヨーク近代美術館蔵
ゴッホは糸杉を題材にした作品を描き続けます。
こちらは彼の代表作の《星月夜》です。
糸杉がまるで炎のように描かれています。
ゴッホ特有の渦まくようなタッチが大気もとらえているのが分かります。
地上には尖塔の教会が描かれています。
しかい糸杉よりも小さく低いです。
これはかつて救いを求めていた教会がゴッホにとって今はそれほど重要ではなく、糸杉の方に畏怖の念が移っていることを暗示しています。
《糸杉と星の見える道》1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ
オランダ、クレラー=ミュラー美術館蔵
さらにそれから1年後、最後の糸杉を描いた作品が完成します。
空に輝くのは、ゴッホにならではの短い線で表現された”星”と柔らかな色彩で描かれた”三日月”です。
その2つの間を、糸杉がまっすぐ天を目指して伸びています。
画面手前では二人の農夫らしき人物が歩いています。
何かを担いでいる所をみると、仕事を終えて家路につく所でしょうか。
ここにはゴッホの初期で主題としていた『労働の尊さ』が表されています。
しかしここに初期と晩年の決定的な違いがあります。
初期のゴッホは『神の言葉を種まく人になりたい』という彼の言葉に表されているように、絵画を通じて、農民や貧しい人を救いたい、いわば救う側の人間として絵を描いていました。
しかし、この頃のゴッホは病気で精神を病んでおり、自分自身がこれまで救いたいと思っていた対象になっている事に気づくのです。
晩年
1890年の5月、ゴッホはパリ近郊の小さな村オーヴェル・シュル・オワーズに移ります。
この地で人生最期の2カ月を過ごします。
《鴉の群れ飛ぶ麦畑(カラスのいる麦畑)》1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ
オランダ、ファン・ゴッホ美術館蔵
描かれているのは画面いっぱいに広がる麦畑です。
その真ん中に一本の道がどこまでも続いています。
ゴッホはこの作品について、「悲しみや極度の孤独を表現してみようと思った」と語っています。
《木の根と幹》1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ
オランダ、ファン・ゴッホ美術館蔵
ゴッホが亡くなるその月に描いた作品です。
この作品からも、またこの頃書かれた手紙からも”死”に結びつくような証拠はありません。
それどころか木々の生命力をたくましく表現したこの作品は、”命を肯定する表現”のようにも見えます。
しかしこの絵を描いて数日後、ゴッホは37年の生涯を閉じるのです。
一般には拳銃自殺と言われていますが、近所の少年が誤って撃ってしまったといった説もあり、その真偽の程は分かっていません。
今回の記事は以上です。
最後までご覧頂きありがとうございました。
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[…] 今回の記事は一旦ここまでです! 続くパート2では、画家として歩み始めたゴッホが、フランスでどのように過ごしていったのかをまとめていきます。 続きはこちら☚からどうぞ! […]