2019年11月11日にwowow(無料放送)で放送された【ゴッホ展特別番組「ゴッホ知ってますか?」後編】の回をブログにまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
前回のパート3はこちらからご覧頂けます。
【まとめ】ゴッホ知ってますか?③【ゴッホ展特別番組】
ゴーギャンとの衝突、共同生活の解消
《耳を切った自画像(頭に包帯をした自画像)》
*「ゴッホ展」には出展されていません
1888年の10月、ゴッホの呼びかけに唯一応じたゴーギャンがアルルにやってきます。
しかし芸術家同士、強い個性を持つ二人の共同生活は長くは続きませんでした。
共同生活の期間がわずか2か月。
そして遂にあの有名な事件「耳切り事件」を起こしてしまいます。
事の発端は、ゴーギャンがアルルからいなくなってしまうのではないか?というゴッホの疑念でした。
当時既に精神を病み始めていたゴッホは、カミソリを持ってゴーギャンに襲い掛かろうとします。
ところがゴーギャンに睨み返されて引き下がり、そして自分の左耳を切り落としたのです。
ちなみにその切り落とした自分の耳は、紙に包んで女性に渡したそうです。
超いらね~~~~~~~!
その女性は娼婦だったとも、何の関係もない女性だったとも諸説あるようです。
ゴーギャンがアルルに来た本当の理由
唯一ゴッホの呼びかけに応じたゴーギャン。
一見すると友情に篤い人間なのかと思いますが、どうやらそういう訳でもないようで…
実はこの当時ゴーギャンは生活に困窮していました。
借金もあり、病気も患っていたといいます。
そんなゴーギャンに救いの手を差し伸べたのが、ゴッホの弟のテオでした。
テオの出した支援の条件が、
「アルルに行って自分の兄(ゴッホ)と一緒に生活してくれたら、経済的に援助する」
というものでした。
つまりゴーギャンはテオから経済的援助を受けるために、ゴッホのいるアルルへと向かったのです。
そのアルルにいる間に安定したのち、自分は南太平洋のタヒチに行こうとゴーギャンは考えていました。
サン=レミの療養院での生活
1889年の5月、幻覚や幻聴に悩まされていたゴッホは自らの意思でサン=レミの療養院に入院します。
入院中も幻覚や幻聴に悩まされていたゴッホですが、そんな状況下でも数々の作品を描きました。
《糸杉》1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ
メトロポリタン美術館蔵
今回の「ゴッホ展」のメインビジュアルにもなっている作品《糸杉》もこの頃に描かれた作品です。
アルル時代とは絵のスタイルがだいぶ変わってきたと思いませんか?
この頃の作品は全体的にうねっているような、そんな作品が多くなってきます。
精神を病みながらも、絵を描き続けるゴッホ。
そのタッチはどんどん色濃く、力強くなっていきます。
この時点でゴッホの年齢は36歳。
37年間の人生だったゴッホは、ここからどのように死に向かう運命になったのでしょう。
ゴッホの最期の2か月間
1890年5月、37歳になったゴッホは2年余り暮らした南仏(アルル、サン=レミ)を離れます。
新たな生活場所となったのは、パリの郊外のオーヴェール=シュル=オワーズという土地でした。
《医師ガシェの肖像》1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ
オルセー美術館蔵
*「ゴッホ展」には出展されていません
ここでガシェというお医者さんに病状を診てもらいながら、人生最後の2か月を過ごす事になります。
《ポピー畑》1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ
ハーグ美術館蔵
オーヴェール=シュル=オワーズでもゴッホは精力的に作品を制作していきます。
この《ポピー畑》は亡くなる僅か一か月前の作品になります。
そして1890年7月27日、ゴッホが拳銃自殺を図ります。
どうして拳銃自殺を??
ゴッホが拳銃自殺をした理由に関しては、記録等が残ってなく分かっていません。
しかし警官がゴッホの元に駆け付けた際に、ゴッホはこう言っています。
「誰のせいでもない」
この言葉を残し、拳銃自殺を図ってから2日後に37年の人生に幕を下ろしました。
いかがでしたでしょうか。
ゴッホの生涯、波乱に満ちた人生でしたね。。。
最後までご覧頂き、ありがとうございました。
コメント
[…] パート3はここまでです。 パート4の次でラストになります。 【まとめ】ゴッホ知ってますか?④【ゴッホ展特別番組】 […]