【ぶらぶら美術・博物館】岸田劉生展①【美術番組まとめ】

ぶらぶら美術・博物館

2019年9月24日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#322 東京ステーションギャラリー 没後90年「岸田劉生展」】の回をまとめました。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。

見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。

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没後90年 岸田劉生展

没後90年記念 岸田劉生展」が東京ステーションギャラリーで2019年10月まで、山口県立美術館で2019年12月まで開催されていました。

現在は名古屋に巡回中で、名古屋市美術館で2020年3月1日まで開催されています。

展示作品も大変充実しており、北は北海道、南は九州まで日本全国から作品が集まっています。
また、展示順は制作年代順に展示されています。

麗子像》でよく知られる岸田劉生
今回の展覧会では、100枚以上描かれたという《麗子像》の中から17点(東京展の展示数)も展示されます。

薄暮之海(1907年)


《薄暮之海》1907年(16歳)
岸田劉生
東京国立近代美術館蔵

描かれているのは現在の品川区・大森海岸です。

このころ丁度、画家の大下藤次郎(おおした とうじろう)が「水彩画之栞」という本を出版し、水彩画がブームとなっていました。
さらにその4年後には「みづゑ」という水彩画専門雑誌が刊行されます。

劉生はそれらの本を元になんと独学で読み進めて、この作品を完成させました。
水辺や道路は点描で描かれており、印象派の作品のようにも見えます。
これは大下藤次郎が自身の作品で水面を点描で表してる、その影響だと考えられます。

この作品の裏面には午後2時半から4時まで、大森海岸で描いた旨が記されており、さらに同じ日の日記には「午後から外に出て絵を描いていたが、寒すぎて帰宅した」と書き記されています。

父の岸田吟香(きしだ ぎんこう)

岸田劉生は、銀座の2丁目にあった裕福な家庭に生まれました。

父親の岸田吟香は当時かなり有名な人物でした。
また、ヘボン式ローマ字の考案者のJ・C・ヘボンの弟子でもありました。
岸田吟香はそのヘボンから教わった目薬や、文房具・書籍などを取り扱う「楽善堂」というお店を経営してました。
さらに実業家や新聞記者としても活躍した有能な人物でした。

また山田五郎氏曰く
岸田吟香は「日本で初めて卵かけご飯を食べた人」と言われているそうです。

そんな父・岸田吟香ですが劉生が14歳の時に亡くなってしまいます。
この《薄暮之海》は父親が亡くなったあとの作品になります。

父・岸田吟香の葬儀は、彼がヘボンの弟子ということもあり、キリスト教の様式で行われました。
その司式を行ったのが牧師の田村直臣(たむら なおおみ)です。
劉生はこの当時、田村直臣に影響を受けて画家ではなく牧師を目指していました。
劉生は14歳で洗礼を受けています。

しかし、その尊敬していた田村直臣
「君は牧師に向いていないので、画家を目指しなさい」と言われたのをきっかけに、画家の道へと転向します。
劉生の激しい気性が周囲となじめなかったのが原因とも言われています。

黒田清輝

画家を目指すことになった劉生は、黒田清輝の主宰する「白馬会洋画研究所」に17歳で入所します。

そして本格的に画家の道を進み始めるのです。

虎ノ門風景(1912年)


《虎ノ門風景》1912年(20歳)
岸田劉生
東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館蔵

劉生20歳ころの作品です。
先の《薄暮之海》とはガラッと印象が変わります。

この景色は「白馬会洋画研究所」の近所の風景を描いたものです。
劉生は自身の生活圏内の風景を描くことが多かったようです。

全体的に厚塗りで描かれており、黒田清輝っぽさは少しも感じられません。
むしろフォーヴィスム絵画のように見えます。

フォーヴィスムとは・・・
1905年にパリで開かれたサロン・ドートンヌ展で、当時の若い画家たちの出品した作品が、強烈な色彩と荒々しい筆遣いで、それらをフォーヴ(野獣の意)のようだと非難したことに由来します。
彼らはその非難の言葉を自分たちの絵画を表す言葉として受け入れ、「フォーヴィスム」を名乗りました。
特徴は、それまで写実の手段であった色を、感情を表す手段として用いた事です。

なぜ劉生黒田風の画風から離れていったのでしょう?

劉生は当時の洋画雑誌「白樺」からゴッホセザンヌマティスといった画家たちを知り、影響を受けます。

特に初期の頃はゴッホに傾倒していたといいます。
自分が最もゴッホに惹かれたのは、自然を自己の眼で見る事を教えられた事であった」と劉生は述べています。

もちろん黒田から教わったように描くこともできた劉生ですが、この頃は方向性の違いが表れ始めていました。
そして「白馬会洋画研究所」から距離を置き、仲間たちと「ヒュウザン会」を結成するのです。

”ヒュウザン”はフランス語で木炭の意味で、「絵を描く道具」に由来しています。
参加メンバーには高村光太郎萬鉄五郎(よろず てつごろう)らがいました。

またかつては牧師を目指していた劉生ですが、この頃はキリスト教とも距離を置きます。
宗教の神ではなく、芸術の中に神を求めていったのです。

パート1は一旦ここまでにします。
パート2へと続きます。
【ぶらぶら美術・博物館】岸田劉生展②【美術番組まとめ】

コメント

  1. […] 見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。 前回のパート1はこちらからご覧頂けます☟☟ 【ぶらぶら美術・博物館】岸田劉生展①【美術番組まとめ】 […]

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