【ぶらぶら美術・博物館】岸田劉生展⑤【美術番組まとめ】

ぶらぶら美術・博物館

2019年9月24日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#322 東京ステーションギャラリー 没後90年「岸田劉生展」】の回をまとめました。

番組内容に沿ってそれだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。

見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。
前回のパート4はこちらからご覧頂けます☟☟
【ぶらぶら美術・博物館】岸田劉生展④【美術番組まとめ】

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《椿之図》(1923年)


《椿之図》1923年(31歳)
岸田劉生
あいおい同和損害保険株式会社蔵

30代に入り本格的に日本画に取り組み始めた頃の作品です。
麗子像》などから考えると、これまでの画風とは全く異なる境地に達しているのが分かります。

《竹籠含春》(1923年)


《竹籠含春》1923年(31歳)
岸田劉生
個人蔵

こちらは上の《椿之図》と同じ年に、同じモチーフの椿を洋画のタッチで描いた作品です。
今回の展覧会では日本画と洋画、両方の椿を見る事ができました。

この頃1922年には、春陽会という絵のグループに客員として参加しています。
春陽会には画家の梅原龍三郎などがいました。
しかし、劉生の自由奔放な発言により、軋轢が生まれ、それが元で脱退しています。

また1923年には関東大震災が起こります。
当時劉生が住んでいた鵠沼の自宅も被災してしまいます。
それがきっかけで京都の南禅寺へ居を移します。

その後3年間ほど京都で過ごしますが、なんとここでかなり遊んでしまいます
元々お酒も飲まない人でしたが、ここで覚てしまいます。
何にでも凝り性な性格なので、はまったらとことんなのが劉生です。
お茶屋遊びにも行くようになり、はじけまくります。

また京都の街には画商も多かったので、作品収集にも拍車が掛かっていきます。
この頃は作品をコレクションするために、絵を描くという本末転倒な状態でした(笑)
この頃自らを「江画 海鯛先生」と名乗ります。
(読み方:えがかいたい=絵が買いたい、という駄洒落です)

京都時代の劉生はお金があると、お酒を飲むか絵を買うかの二択という生活でした。

《田村直臣七十歳記念之像》(1927年)


《田村直臣七十歳記念之像》1927年(36歳)
岸田劉生
東京国立近代美術館蔵

読み方は「たむらなおおみ ななじゅっさいきねんのぞう」です。

京都で2,3年、お茶屋遊びや絵画収集に明け暮れていた劉生ですが、
これじゃいかん!」と思い立ち、35歳の時に鎌倉に転居し、生活を立て直そうと奮起します。

この作品は鎌倉に戻ってから手掛けたものです。

モデルとなったのは劉生が最初に洗礼を受けた、牧師の田村直臣です。
劉生が若い頃、最も影響を受けた人物です。
田村直臣でについては、パート1で詳しく解説しています☞こちらから)
その田村直臣が70歳になるという事で依頼を受けて制作された一枚です。

顔と体のバランスがまるで赤ん坊のように描かれており、一見面白い構図になっています。
ここでもデューラーから影響を受けた、手に花を持つ構図を取り入れています。

作曲家として知られる山田耕筰も、この田村直臣が育てました。
76歳で亡くなりますが、そのお葬式では山田耕筰がオルガンを演奏しました。
岸田劉生山田耕筰もこの田村直臣がいなければ、世に出ることは無かったと言えます。

《塘芽庵主人閑居の図》(1928年頃)

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

《塘芽庵主人閑居之図》1928年頃
岸田劉生
下関市立美術館蔵

読み方は「とうがあんしゅじんかんきょのず」です。

これまでの画風とは、全く違う画風で
「え、これが岸田劉生の作品なの?!」と驚いてしまうような作品です。
このような画風は南画風と呼ばれます。

この頃劉生は雅号を、「塘芽堂(とうがどう)」としていました。
その雅号を持ってきて、タイトルを「塘芽庵」としたと考えられます。

この「塘芽堂」は同じ音の「唐畫(とうが)」(中国の絵の事)から取っていると考えられます。
先程の「江画 海鯛先生」同様にここでも劉生のダジャレ好きが出ているのです。

37歳の時の作品ですが、描かれているのは劉生は今までよりふくよかな体型になっています。

キャリア序盤は絵画に対してストイックなイメージのあった劉生ですが、良くも悪くも緩くなって、脱力感のある作品になっています。

周囲からはもう一度油絵に取り組んで欲しいと願われ、また劉生自身ももう一度真摯に絵画に向き合いたいという思いから、この後中国の大連へと向かうのです。

《満鉄総裁邸の庭》(1929年)


《満鉄総裁邸の庭》1929年(38歳)
岸田劉生
ポーラ美術館像

読み方は「まんてつそうさいていのにわ」です。

こちらは劉生最晩年の作品です。
1929年の9月に南満州鉄道会社に招かれて満州の大連に向かいます。
これが劉生にとって、最初で最後の海外経験となりました。

劉生はこの頃、金銭面で苦労していました。
そんな中「満州の偉い人の肖像画を描くと、高価で買い取ってくれる」という話を聞き、大連へ行く事を決意します。

さらに劉生は大連に行った後の事も考えていました。
そこでお金を貯めたのち、フランス・パリに行って絵の勉強をしようと考えていたのです。

しかし、想像していたように上手くはいきませんでした。
すでに大連で成功している画家に先を越されてしまい、劉生が行ったタイミングでは絵はそこまで売れませんでした。

そういったいきさつもあり、今作のような風景画を制作していました。
かなり色鮮やかで、初期の作品のような穏やかな風景、印象派のような作風に戻っています。

大連に赴く際に画商の田島一郎と同行していた劉生は、二カ月の滞在の後、日本に帰り田島氏の郷里である山口県の徳山(現・周南市)で亡くなります。
志半ば、38歳という短い生涯でした。

岸田劉生はまさに天才というべき画家でした。
そしてその才能故の、苦労や苦しみもありました。
しかし、もし劉生が天寿を全うできていたなら、きっともう一山ピークがあったことでしょう。

本当に惜しいなと、この先の劉生も見てみたかったという思いが、彼の作品を見ていると募ります。

最後までご覧頂きありがとうございました。

コメント

  1. […] パート4はここまでです。 次のパート5でラストです。 日本画に転向していった劉生についてまとめていきます。 【ぶらぶら美術・博物館】岸田劉生展⑤【美術番組まとめ】 […]

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