2023年11月5日にNHKにて放送された「日曜美術館」の【華麗なる至宝 天平の祈り 〜第75回 正倉院展〜】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
《青斑石鼈合子》
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
第75回正倉院展の会場で一際注目を集めていたのが、こちらの《青斑石鼈合子(せいはんせきのべつごうす)》です。
スッポンの形をした容器で、鼈(べつ)というのがスッポンのことを指します。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
このようにスッポンの体の部分が蓋のようになっています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
つぶらな目には琥珀が埋め込まれています。
また、鼻は細長く突き出ています。
蛇紋岩(じゃもんがん)と呼ばれる深緑色の岩石を削り出し、スッポンを見事なまでに写実的に表しています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
実際のスッポンと比べてもこの通りです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
スッポンの甲羅には7つの点が残されています。
現在は黒っぽい色になっています(この画像では分かりやすくするために白色になっています)が、制作当初は銀色の点で表わされていたと考えられています。
この背中の点は何を表しているのか?
これらの点を結ぶと、裏返しの北斗七星になっています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
じつは古代の中国では「地上=方形(水平)」「天=円形(ドーム型)」と考えられており、こちらの宝物にもその思想が反映されているといいます
つまり、スッポンの水平なお腹が地面で、丸い甲羅を天に見立てているのです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こちらの裏返しの北斗七星も、スッポンの内側から見た時には正しい北斗七星の向きになっているのです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
では、このスッポンの容器は何を入れるためのものだったのでしょう?
その答えは”仙薬(せんやく)”だと考えられています。
仙薬は「不老長寿になりたい」「仙人になりたい」といった願いを叶えるといわれた薬のことです。
《紅赤布》
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こちらの《紅赤布(べにあかのぬの)》は長さ約12メートルの麻の布です。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
布の端には東大寺の大仏開眼供養会の日付が記されています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こちらの宝物は大仏開眼供養会の時に大仏殿の床に敷かれたものと考えられています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
さらにこの布については、上総国(かずさのくに、現在の千葉県)から税として納められた特別な品であることも記録されていました。
『正倉院文書』
正倉院展では私たちがイメージする宝物以外にも、貴重な品々が展示されています。
それが奈良時代の人々の日々の暮らしを今に伝えてくれる『正倉院文書』です。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こちらは下総国葛飾郡(今の東京都葛飾区付近)の住人をまとめた戸籍です。
ここから当時の人々の年齢や家族構成を知ることができます。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
ここに記されているのは、孔王部(アナホベ)さん一家の戸籍です。
記録には孔王部さんの名前と年齢、そして妻と妾(めかけ)、子供たちそれぞれの情報が書き記されています。
聖武天皇の時代、律令制のもと戸籍は6年ごとに更新され、それらは天皇の元にも届けられました。
この時代に人と物の管理を文書によって行う社会ができあがったのです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
『正倉院文書』の多くは奈良時代に役所で使われていた事務帳簿です。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
それらは元々正倉院とは別の倉庫に保管されていましたが、いつからか正倉院に入り、以降宝物同様に1300年間伝わってきました。
これら『正倉院文書』は実際の仕事現場に近いところでつくられたもので、編さんされた史料とはその性質が異なります。
その点から”実態にそくした生の史料”といえるのです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こちらの文書は甲斐国(現在の山梨県)から中央の役所に送られた文書です。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
”アヤヒトベノ チヨ”という人物が3年間勤務する労働者として送られる、という内容が記されています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
その人の特徴として「年齢32歳」「左手に傷がある」と書かれています。
アヤヒトベノ チヨは同郷の親族が逃亡してしまったことで、その代理として都に派遣されることになったのです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
仕事を始めたアヤヒトベノ チヨですが、別の史料から数か月後に逃亡したことが分かっています。
過重な労働に音を上げたのか、故郷が恋しくなったのか、はたまた逃げた身内のことで後ろ指をさされたのか。
逃亡の理由までは分かっていませんが、当時の人のリアルな職場事情が分かるのです。
良弁僧正について
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
2023年10月。
東大寺で3日間にわたり「良弁僧正1250年 御遠忌法要」が行われました。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
東大寺を統括する役職である別当(べっとう)。
その初代を務めた良弁僧正(ろうべん そうじょう)の没後1250年の法要です。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
東大寺に伝わる《四聖御影(ししょうみえい)》。
(※第75回正倉院展の出陳作品ではありません)
大仏造立に深く関わった4人の人物が描かれており、左側奥にいらっしゃるのが聖武天皇です。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
聖武天皇の前に見えるのが良弁(ろうべん)です。
良弁は大仏建立を仏教の教えによって支えました。
第75回正倉院展では良弁直筆の書が出陳されています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
それが『正倉院古文書正集 第七巻 少僧都良弁牒』です。
その内容は経典の借用を依頼したものです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
良弁は力強い筆で、寺を代表して署名しています。
この文書から良弁が様々な文書を借り、熱心に勉強会を開いたことが伺えます。
現在の東大寺別当の橋村公英氏は良弁について「今まで知らなかったことを体験したいというとても好奇心の強い方で、日本の大乗仏教の原点を築かれた方だった」と話します。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
滋賀県にある石山寺。
ここに良弁の業績をみることができます。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こちらの文書はその石山寺の造営に関するものです。
晩年の良弁のエピソードがありました。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
大僧都(だいそうず)は良弁のことを指しています。
東大寺別当として石山寺の建設を仕切っていました。
ある時良弁は「鏡を4面作るように」と命令を受けます。
そこで奈良から優秀な職人を4人呼び寄せようとしますが、「奈良もそんなに余裕はない」ということで断られてしまいます。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
都の事情を鑑みた良弁は「見積書の作成」という理由にして、2人を最優先で派遣してもらうよう依頼しました。
正倉院事務所所長の飯田剛彦氏は良弁について「何が重要か分かった上でキッチリ仕事をしていくリーダーのような人物だった」と話します。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
良弁は756年に大仏建立の功績が認められ、東大寺初代別当に任命されました。
聖武天皇がこの世を去った後も、東大寺伽藍の整備や後進の育成に尽力し、774年に85歳で亡くなりました。
今回の記事はここまでです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。