2026年2月10日にテレビ東京で放送された「開運!なんでも鑑定団」の【本阿弥光悦の茶碗】についてまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
*画像出展元:テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」より
稀代の芸術家 本阿弥光悦

本阿弥光悦(1558-1637)は桃山時代から江戸初期にかけて活躍した稀代の芸術家である。

陶芸や漆芸。

そして書にいたるまで。
様々な分野で才を発揮したことから、現代では”日本のレオナル・ド・ダヴィンチ”と称されている。

1558年、京の生まれ。
光悦が生まれた本阿弥家は代々、刀剣の鑑定や研磨を生業としており、

将軍家や大名家に仕えていた。

光悦は上流の武家と交流するなかで、和歌や茶道に深く傾倒。

さらに腕のある職人から金工や蒔絵の技を学び、やがて卓越した美意識を発揮する。

例えば漆芸。
金属の板や貝を用いた大胆な意匠は、今見てもなお斬新である。

光悦の作品は2点国宝に指定されているが、そのうちの一つ『舟橋蒔絵硯箱』。

蓋を山のように盛り上げて奇抜にしたのも、

歌文字をデザイン的に散りばめたのも全て光悦独自の発想で、尾形光琳らのちの芸術家にも多大な影響を与え、後の「琳派」の礎となった。

書もしかり。
こちらは俵屋宗達が描いた蓮の上に、光悦が和歌をしたためた合作。

その筆致は実に流麗で、絵と見事に調和している。

そんな光悦が還暦を迎える頃から没頭したのが”陶芸”であった。

千利休の高弟・古田織部に茶の湯を学んだ光悦。

1615年、徳川家康から京・鷹峯の地を拝領。
この地で本格的に作陶を開始した。

特に好んだのは、侘茶の精神を体現した素朴な楽茶碗。

興の赴くまま自ら手びねりした。
楽家二代・常慶(じょうけい)と三代・道入(どうにゅう)に教えを受けたが、その作風はいかにも独創的。

例えばこの黒楽茶碗。
胴はほぼ垂直に立ち上がり、

口縁部は凸凹と起伏している。

ムラがけされた釉薬にはヘラでかき落とした跡もあり、強烈な個性が見てとれる。

この景色が空を覆う雲と、激しいしゅう雨に見えることから「雨雲」の銘がついた。

この赤楽茶碗は「雪峯(せっぽう)」と命名されている。

大きな傷は焼成温度が上がりすぎてできたもの。
光悦はこれを逆に面白がり、雪解けの渓流になぞらえ、金で繕った。

京都の相国寺が所蔵する加賀光悦は、稀代の茶人・松平不昧(まつだいら ふまい)が所持し、のちに加賀前田家に伝わった名品。

縦に力強く入れたヘラ跡が実に無骨といえよう。

光悦の茶碗はその多くが口縁部(こうえんぶ)に起伏があり、高台は低い。

しかしその特徴以外一つ一つ全く違った味わいがあり、その芸術性の幅広さが伺える。
36万1000円で落札 本阿弥光悦の茶碗

改めて依頼品を見てみよう。
本阿弥光悦の赤楽茶碗(あからくちゃわん)である。
依頼人がネットオークションで36万1000円で落札したものとのこと。

胴がほぼ垂直に立ち上がった半筒形で、起伏のある口作り。

ところどころにあるヘラ跡。

そして低い高台はいかにも光悦らしく、鮮やかな飴釉とやわらかい白釉のコントラストも美しい。

箱には表千家八代・啐啄斎(そったくさい、1744-1808)の極めがある。

茶碗の景色を朝焼けの空にかかる霞に見立て、「朝霞(あさがすみ)」と命名している。

光悦が作陶を行ったのは20年ほど。
しかし自身の名を刻まなかったため、作品の多くは作者不明として行方知れずになった。

現在発見されているのは30点あまり。

もし本物なら大発見だが、果して鑑定やいかに。
残念…ニセモノ


残念!5千円!

「偽物ですね。本物だったら2億円します」

「光悦の茶碗というのは、直線的なラインを特徴とするものと、膨らみかけた蕾のような曲線を特徴とするものに大きく分けられる」

「この茶碗はそのどちらにも属さない、中途半端ですね」

「それから光悦の白釉というものは、他の釉薬からにじみ出る、ほんのりとした自然体です。こういう作為的なものではない」

「表千家八代・啐啄斎、偽の筆ですね」
今回の記事はここまでになります。

