【岩崎彌之助の至宝】三菱の至宝展③【ぶらぶら美術・博物館】

ぶらぶら美術・博物館

2021年8月10日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#382 まるで国宝展?! 三菱一号館美術館「三菱の至宝展」~奇跡の茶碗、国宝「曜変天目」が登場!刀剣に俵屋宗達、東方見聞録も~】の回をまとめました。

今回の記事はパート3になります。
前回のパート2はこちら☚からご覧いただけます。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪

今回の記事では、第2代社長・岩崎彌之助(いわさき やのすけ)のコレクションをまとめていきます。

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《太刀 銘 髙綱(号 滝川高綱 )》(附 朱塗鞘打刀拵)

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

彌之助が好んで収集したものの一つが刀剣でした。

こちらの《太刀 銘 髙綱(号 滝川高綱 )》は織田信長が家臣である滝川一益に与えたと伝わるものです。
また拵(こしらえ、日本刀の外装の意)も信長があつらえさせたといわれています。

鎌倉時代に作られたもので、備前国(今の岡山県)で活躍した刀工の髙綱(たかつな)によるものです。

また備前国は刀剣の産地としても有名で、他には大和(奈良県)・山城(京都府)・相州(神奈川県)・美濃(岐阜県)が知られてました。
これら五つの産地を総称して「五箇伝(ごかでん)」と呼びます。
中でも備前国は最も歴史があり、さらに生産量が最も多く、また現存するものが多いのが特徴です。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

彌之助が刀剣の収集を始めたのにはある理由がありました。

明治9年に明治政府より廃刀令(刀を身につける事を禁じたもの)が出されます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

それに伴い、良い刀から悪い刀まで多くの刀剣が市場に流出。当時来日していた外国人によって安い値段で買われていきました。

このままでは日本から良い刀剣がなくなってしまう
と危惧した彌之助は、刀剣の海外流出を防ぐために収集を始めたのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

彌之助が生涯に収集した刀剣は数百振あったといわれています。
現在静嘉堂にはおよそ120振が所蔵されており、その中には国宝1件重要文化財8件が含まれています。

《太刀 銘 包永 》(附 菊桐紋蒔絵鞘糸巻太刀拵)

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらが静嘉堂が所蔵する国宝の刀剣になります。

作られた時代は刀が鎌倉時代の13世紀、拵は江戸時代後期のものになります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

鞘の部分には蒔絵の装飾がほどこされています。
かなり豪華な造りになっている事から、実戦用ではなく儀式用に使われたものだと分かります。

この刀をつくったのは、今の奈良県の最大の刀工集団であった大和手掻派、その祖といわれる手掻包永(てがいかねなが)です。

当時の大和国の刀工集団はその多くが寺院に属し、寺の僧兵への武器供給の役割を果たしていました。
大和手掻派は東大寺専属の刀工集団でした。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

では、なぜこの刀は国宝に指定されているのでしょう?

その理由は刀工の手掻包永の作刀したものが少ないというのと、刀剣に用いる言葉で「健全である」というのが理由です。
「健全である」というのは、”作られた当初の姿をとどめてある”という意味です。

古い刀は現在までの間に研いで、すり減ってしまう事がよくあります。
しかしこの手掻包永太刀は、作られてから700年ほど経ちますが、ほとんどそういった衰えがないという点で、たいへん評価の高い刀なのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらは第4代社長の岩崎小彌太(岩崎彌之助の息子)の収集になります。
ですが、小彌太は刀剣の趣味がなかったといいます。

じゃあどうしてこの刀を収集したのでしょう?

小彌太は彌之助から静嘉堂を引き継ぎ、昭和15年に財団法人化します。
じつはその後に美術館の建設を予定していたのです。
広く公開するにあたり、コレクションを体系的にするという意味で、父親である彌之助のコレクションにないものを集めていったのです。

俵屋宗達 《源氏物語関屋澪標図屏風》

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらは俵屋宗達の国宝《源氏物語関屋澪標図屏風(げんじものがたり せきや みおつくしず びょうぶ)》という作品です。
タイトルからも分かる通り『源氏物語』に取材した作品です。

画像出展元:静嘉堂文庫美術館 ホームページ より

元々は2枚で一つの作品(六曲一双)です。


三菱の至宝展では、展覧会前期に左隻の『澪標図』、後期にこちらの右隻の『関屋図』が展示されています。

宗達の作品でこれほど大きな屛風は珍しく、非常に貴重な作品といえます。


今回は『澪標図』について詳しく見ていきます。
ここで描かれているのは源氏物語の主人公・源氏が豪華な行列を引き連れて、住吉大社に参詣する場面です。


ちょうど同じときに、右上に描かれている舟に乗って、源氏の妻の一人である明石君(あかしのきみ)も参詣に来ていました。

源氏は明石君と愛し合っていましたが、身分の差がありました。
明石君はそれを悲しみ、声を掛けず、参詣もせず去っていく、そんな恋のすれ違いを表現した作品です。


舟の周りの波の様子や、左上の急角度にデフォルメされた太鼓橋など見どころの多い作品です。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

元々は京都の醍醐寺に伝わる作品でしたが、明治に入り、廃仏毀釈の影響で醍醐寺も困窮していました。
そこで彌之助が明治28年頃、京都に赴いた際に醍醐寺に立ち寄り、寄進しています。
その寄進の返礼として、この作品は岩崎家に送られたのです。

橋本雅邦《龍虎図屏風 》

彌之助がこの時京都に行った目的は、第4回内国勧業博覧会(明治28)が開催されたからでした。
彌之助はこの博覧会の支援も行っていました。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

その博覧会に出品されたのがこちらの作品です。
描いたのは横山大観菱田春草の先生でもあった、明治の日本画家の橋本雅邦です。

美術史的に重要な作品でもあり、昭和30年に近代絵画初の重要文化財に指定されています。


描かれているのは二頭の龍とその龍に吠える二頭の虎の姿です。
強い風の様子が水しぶきや、しなる竹で表わされています。


近代的な空間表現が特徴的な一枚です。
ちなみに左隻の虎は、当時「腰抜けの虎」という酷い評価をされたといいます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

第4回内国勧業博覧会に際して、支援者であった彌之助は数名の日本画家に屏風の制作を依頼しており、その中の一枚がこの雅邦の作品なのです。

橋本雅邦

橋本雅邦東京美術学校の日本画の大家ともいえる存在でした。
一方で西洋画の大家と呼ばれたのが次の画家です。

コメント

  1. […] 今回の記事はここまでになります。 続くパート3では、小彌太の父である第二代社長・彌之助の収集した美術品について見ていきます。 【岩崎彌之助の至宝】三菱の至宝展③【ぶらぶら美術・博物館】 […]

  2. […] 今回の記事はパート4になります。 前回のパート3はこちら☚からご覧いただけます。 […]

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