2020年7月11日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【バロックへの道を切り拓いたアンニーバレ・カラッチ】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
イントロダクション
アンニーバレ・カラッチ(1560-1609)という画家はご存知でしょうか?
日本ではあまり知られていない画家ですが、西洋美術史では「バロック絵画への道を切り開いた画家」「バロック様式を創った画家」として、非常に重要な画家とされています。
彼が生まれたのは北イタリアの古都として知られるボローニャ。
この街には1088年に創立され、西欧諸国で最も古い大学とされる「ボローニャ大学」があることで知られています。
そんなボローニャで美術の歴史に多大な貢献をしたのがカラッチ一族です。
彼らの影響の下で、17世紀イタリアを代表する画家たちが誕生しました。
今回取り上げるアンニーバレ・カラッチはその中でも最年少で、その名をイタリア中に知られるほどの売れっ子画家でした。
《豆を食べる男》カラッチ
《豆を食べる男》1583-85年頃
アンニーバレ・カラッチ
イタリア、コロンナ・ギャラリー蔵
描かれているのはタイトルの通り、テーブルに座り食事を取る無骨な男性です。
カラッチが20代前半の頃に描いた作品で、16世紀のイタリア庶民の食事風景を臨場感たっぷりに描いています。
男性が黙々と食しているのはゆでた豆です。
スプーンからはスープが滴り落ちているのが見えます。
当時の絵画では民衆を描いた場合でも、ただ描くのではなく、そこに何らかの寓意を込めるのが普通でした。
この作品のように特に寓意もなく、純粋に風俗画として描かれたものは、宗教画の本場であるイタリア絵画では数が多くありません。
そこには近代的な写実主義に通ずるものがあります。
作品からは、まるで共に食卓を囲っているような臨場感さえ感じられます。
画家アンニーバレ・カラッチ
アンニーバレ・カラッチが生まれたのは1560年。
当時のイタリアの美術はマニエリスム絵画の全盛期にありました。
しかしカラッチが生まれたボローニャではラファエロに代表されるようなシンプルで道徳的な作品が好まれていました。
カラッチもそのような調和のとれた古典的な様式の絵画を目指しました。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
若くして画家として成功をおさめたカラッチは、1585年に兄のアゴスティーノ・カラッチ、いとこのルドヴィーコ・カラッチと共に美術学校を設立します。
「アカデミア・デリ・インカンミナーティ」と名付けられたこの美術学校。
ここで教えられたのは、”絵を描く事”だけではありませんでした。
”幅広い教養を持った芸術家を育てる”という精神の元、教師陣には哲学者・天文学者・医者などが名を連ね、近代的な教育が行われていたのです。
この画学校からはグイド・レーニやグエルチーノといった後の著名画家を数多く輩出しました。
グイド・レーニはあの《真珠の耳飾りの少女》の元になったとも言われる《ベアトリーチェ・チェンチの肖像》を描いた事でよく知られています。
カラッチ一族やグイド・レーニ、グエルチーノらはやがてボローニャ派と呼ばれ、イタリア画壇を先導する存在となります。
「カラッチと彼の弟子たちについて語る事は、その後2世紀にわたるイタリア絵画について語るのと同じである」とまで言われたほどです。
『ファルネーゼ宮殿天井画』カラッチ
その後カラッチは35歳の時に、名家ファルネーゼ家出身の枢機卿に招かれてローマへと赴きます。
カラッチは枢機卿の庇護を受けながら、傑作を残していくのです。
『ファルネーゼ宮殿天井画』1597-1600年頃
アンニーバレ・カラッチ
それがファルネーゼ宮殿(現在はイタリアにおけるフランス大使館)に描いた天井画です。
正確なデッサンによる人体表現と考え抜かれた構図。
画面には神話の神々が織りなす明るい祝祭の雰囲気に満ちています。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
この天井画はミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画と比較されるほどの高い評価を受け、その後の宮廷装飾の手本となりました。
初めて天井画が公開された1600年は、奇しくもあのカラヴァッジョがローマ画壇にデビューした年でもありました。
当時のローマはカラッチとカラヴァッジョの話題で持ちきりだったといいます。
しかし『ファルネーゼ宮殿天井画』のパトロンである枢機卿からの評価は良くありませんでした。
カラッチは落胆し、仕事は弟子たちに任せ、徐々に絵画制作から距離を置くようになります。
精魂込めて描いた天井画が評価されず、報酬も満足に得られなかった事で、次第に精神も病んでいきました。
以降、この天井画のような大仕事に取り組むこともなく、1609年に49歳の若さでこの世を去るのです。
《自画像》カラッチ
《自画像》1603-04年
アンニーバレ・カラッチ
エルミタージュ美術館蔵
亡くなる5,6年前に描かれた自画像が残されています。
彼の不安定な精神状態が垣間見える作品ですね。
少なくとも画家としての自信があるようには見えません。
全体的に暗い画面の中、置かれたイーゼルに自画像が立てからけれています。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
よく見るとイーゼルの脚の所には犬と猫の姿が見えます。
こちらはなにやら人影でしょうか?
描かれているもの全てが輪郭を失い、暗闇に消えていくかのようです。
意味深にイーゼルに掛けられたパレット。
儚さと寂しさに満ちたこの自画像は、メランコリーなカラッチの心情を表しているかのようです。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
バロック絵画への扉を開いた偉大な存在でありながら、志半ばでこの世を去ったアンニーバレ・カラッチ。
彼は死後、自身が尊敬してやまなかったラファエロも眠るローマのパンテオンに埋葬されました。
カラッチが精神を病むことなく作品を描き続けていたならば、きっとより多くの傑作を残し、ここ日本でもよく知られた画家となっていた事でしょう。
今回の記事はここまでになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!