2020年7月4日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【モネとルノワールが競作「ラ・グルヌイエール」】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
イントロダクション
印象派の画家の中でも、特に人気があるのはクロード・モネとピエール=オーギュスト・ルノワールといえるでしょう。
今回はその二人が若かりし頃に競作した作品《ラ・グルヌイエール》を取り上げます。
「ラ・グルヌイエール」とはパリのセーヌ河畔の水浴場の事で、”カエルのすみか”という意味だそう。
1860年代から行楽地として知られるようになったこの場所で、モネとルノワールは二人でキャンバスを並べて同じ光景を描きました。
1869年の夏、モネ、ルノワール共に20代後半のときの事です。
画像出展元:テレビ番組「アートステージ」より
今回は同じモチーフを描いた二大巨匠の作品を見比べていきます。
モネ《ラ・グルヌイエール》
《ラ・グルヌイエール》1869年
クロード・モネ
メトロポリタン美術館蔵
それでは先ずモネが描いた方から見てみましょう。
この作品を描いた当時、モネは28歳でした。
パリ郊外のリゾート地だけあって、多くの人で賑わっています。
中央の丸い小島には人々が集まり、海水浴を楽しんでいる人の姿もあります。
光きらめく水面の表現もたいへん見事です。
当時、都会の喧騒から離れて、多くの人がここで休日を楽しみました。
モネのこの作品からはあまり感じられませんが、娼婦や遊び人などもたむろしており、少し危険な香りのする歓楽地だったといいます。
中央の小島は人工の島で、その形状からカマンベールと呼ばれていたそうです。
そしてその右隣に見えるのが水上カフェです。
このリゾート地では舟遊びも人気がありました。
ボートが反射する水面を斬新な表現で描いています。
それではそのモネのすぐ隣で一緒に描いたルノワールの作品を見てみましょう。
ルノワール《ラ・グルヌイエール》
《ラ・グルヌイエール》1869年
ピエール=オーギュスト・ルノワール
スウェーデン国立美術館蔵
小島の位置や水上カフェの場所などから、モネと同じ光景を描いているのが分かります。
けれども作品の印象は若干異なります。
中央の小島に描かれた人物を見比べると、ルノワールの作品の方が細部まで描かれているのが分かります。
手前の着飾った女性のドレスや、シルクハットを被りお洒落に決めた男性も見分けることができます。
モネの方では人物は風景と同じようなザッとしたタッチで描かれています。
一見似た作品ですが、人物の描き方の違いが見られます。
ここには後の二人が異なる画風になっていく、その片鱗が表れています。
モネとルノワールの出会い
画像出展元:テレビ番組「アートステージ」より
二人でキャンバスを並べて競作した《ラ・グルヌイエール》。
この作品を描いた8年前に二人は出会いました。
出会いの場はシャルル・グレールという画家が開いていた画塾でした。
シャルル・グレールはスイスの生まれで、幼いころにフランスにやってきます。
彼はエコール・デ・ボザールで学んだ事もあるアカデミックな画家で、サロンでの入選経験もありました。
”怖い絵”でお馴染みの《レディ・ジェーン・グレイの処刑》を描いた事でも知られるポール・ドラローシュが、経営していた画塾を閉めようとしていた所をグレールが引き継ぎ、画塾を運営していく事になりました。
この画塾では授業料は取らずに、かかる費用は実費だけだったといいます。
モネとルノワール以外にも、のちに印象派として活躍するシスレーやバジールなども通っていました。
当時のモネは22歳で、画家を志して故郷のル・アーブルから上京してきたばかりでした。
学年が同じルノワール(モネより3カ月年下)は元々磁器の絵付けの職人でした。
しかし磁器に絵柄をプリントする技術が発明され、職を失ってしまいます。こうして彼も画家の道へと進もうとしていました。
時代背景
画像出展元:テレビ番組「アートステージ」より
モネとルノワールが出会った頃は、美術界も大きく変わろうとしていた時代でした。
写実主義のクールベ、バルビゾン派のミレー、そして印象派の父と呼ばれるマネらが、アカデミックな絵画にとらわれない、斬新な表現で作品を発表していた頃だったのです。
モネとルノワールはそんな先駆的な役割を果たした巨匠たちと交流し、自身のスタイルを追求していきました。
2人に対する評価
《日傘をさすリーズ》
(1868年サロン展入選)
ルノワール
ドイツ、フォルヴァンク美術館蔵
そんな2人の作品は、サロン展に応募しても入選と落選の繰り返しで、なかなか世間には認められませんでした。
《カミーユ、緑衣の女》
(1866年サロン展入選)
クロード・モネ
ブレーメン美術館蔵
苦しい生活が続き、特にモネの経済状況は深刻だったといいます。
心配になったルノワールはたびたび食料をモネに分けていたとか。
モネの描きたかったもの
戸外に出て、イーゼルを立て、自然の光の中で作品を描いた印象派の画家たち。
しかしモネは当初画家のウジェーヌ・ブーダンから野外制作に誘われた際には、その誘いを断ったといいます。
しかし結局戸外での油絵制作を教わる事になりますが、この時にモネの原型が出来上がったとも言えます。
モネは「光の画家」と呼ばれます。
彼の興味の対象は「絶えず移ろう光と影」でした。
《ラ・グルヌイエール》の3年後に描かれたのが、印象派の記念碑的作品《印象、日の出》でした。
ご存知、第1回印象派展に出品されたモネの代表作です。
モネの描いた《ラ・グルヌイエール》に話を戻しましょう。
この作品で最も目を奪われるのは、何と言っても空や木々を映す水面の表現です。
つまりこの時すでにモネに興味は人物ではなく「絶えず移ろう光と影」にあり、すでに「光の画家」でだったことを証明しているのです。
ルノワールが描きたかったもの
一方、ルノワールはどうでしょうか?
彼は温かな人物像を描き「幸福の画家」と呼ばれるようになります。
代表作である《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》では穏やかな木漏れ日が降り注ぐ中で、着飾ったパリジャン、パリジェンヌたちが休日を謳歌しています。
この作品からも分かるように、ルノワールの関心は人物やファッションに向かっていたのです。
それを踏まえて、ルノワールの描いた《ラ・グルヌイエール》を見ると、なるほど、ルノワールの描きたい対象がモネとははっきりと違っていた事が分かります。
《ラ・グルヌイエール》は《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》の7年前に描かれました。
印象派を代表する二大巨匠が若き日にイーゼルを並べて描いた《ラ・グルヌイエール》。
同じ光景を描きながらも、二人の画家の個性がそれぞれにはっきりと表れている、たいへん興味深い2枚の作品です。
今回の記事は以上になります。
最後までご覧頂きありがとうございました。
コメント
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