2020年7月18日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【カミーユ・ピサロ 印象派の中の印象派】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
イントロダクション
「印象派の画家といえば?」と言われて、思いつく画家は誰でしょう?
モネやルノワールといった画家を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
全部で8回開催された印象派展。その全てに作品を出品した唯一の画家が今回の主役、カミーユ・ピサロです。
ピサロこそ”最も印象派らしい画家”と言えるのです。
ほとんど2~3歳の差で構成される印象派の画家の中でも、ピサロは10歳ほど年が離れており、また穏やかで温かい性格であった事もあり、仲間たちから兄のように慕われていました。
またポスト印象派の画家である、セザンヌやゴーギャンにとっては父親的存在でもありました。
まさに印象派の長老的存在ともいえる、ピサロ。
まずはそんな彼の作品を見てみましょう。
《赤い屋根、冬の効果》ピサロ
《赤い屋根、冬の効果》1877年
カミーユ・ピサロ
オルセー美術館蔵
あたたかな色彩に彩られた田園風景。
描かれているのは、当時ピサロが住んでいたポントワーズという村の近くで、パリから30キロほど離れた所です。
葉を落とした木々から、季節が冬である事が分かります。
前景には果樹園が広がる穏やかな風景です。
木々の隙間からはタイトルにもなっている赤い屋根の家が見えます。
庶民的な家の造りは、ここがのどかな田舎である事を伝えます。
奥に見える丘を越えていくとポントワーズへと続きます。
ここでは暖色系の色使いで土や草を表現しています。
この作品のように多くの印象派の画家たちは屋外に出て、その風景を見ながら作品を制作しました。
中でも最も野外制作を重要視したのがピサロでした。
印象派として名を上げる前のピサロは、この土地に暮らして風景画を数多く残しました。
その数はおよそ300点にも及びます。
ピサロとポントワーズ近くの村
19世紀前半以降、印象派よりも前の時代に野外で製作する画家たちが現れます。
中でもバルビゾン村やその近郊で自然主義的な風景画を描いた「バルビゾン派」は有名です。
《落穂拾い》で知られるミレーは、バルビゾン派の代表格でした。
他にもパリからアクセスも容易なフォンテーヌヴローも画家から人気がありました。
ピサロは、そんな画家たちが集まるような人気の場所を避けて、ポントワーズを選びました。
そしてまだどの画家たちも描いていないポントワーズの風景を描きました。
ピサロ同様にその手つかずの風景、さらにはそのピサロ本人を慕って、ポントワーズには画家仲間が次第に訪れるようになります。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
あのセザンヌもピサロを父のように慕い、この地を訪れています。
この《赤い屋根、冬の効果》からはそんなピサロの温かい人柄が伝わってくるような、優しい色彩が溢れています。
画家カミーユ・ピサロ
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
1830年、ピサロはカリブ海に浮かぶセント・トーマス島に生まれました。
若い頃は実家の金物屋の手伝いをしていましたが、そんな彼に転機が訪れます。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
それはセント・トーマス島に滞在していた、画家のフリッツ・メルビ―との出会いでした。
ピサロは彼に触発され、画家を目指すようになります。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
やがてピサロはメルビーと共にベネズエラを旅し、そこに2年間にわたって滞在しながら、絵の修行を積むのです。
1855年、25歳の時にピサロはパリへ上京します。
そして自由な画風で知られるアカデミー・シュイスの画塾で絵を学び、後に印象派として行動を共にするモネやセザンヌ、ルノワール、シスレーらと出会います。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
やがて彼らは1874年にグループ展を開催します。
今では「第一回印象派展」として知られるこの展覧会ですが、当初は「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」という名称でした。
《白い霜、アヌリーの旧道、ポントワーズ》1873年
カミーユ・ピサロ
オルセー美術館蔵
ピサロは全部で8回開催された印象派展、その全てに作品を出品しています。これはピサロだけの事です。
上の作品は第一回展に出品されました。
やがて印象派グループ内の内部分裂が起きてきます。
特にドガとモネやルノワールの対立は深刻なものでした。
年長のピサロはいさかいが起こるたびに、調停役としてグループをまとめようとしました。
しかしそのピサロの努力もむなしく、ルノワール、シスレー、セザンヌは第三回展を最後に、モネも第四回展を最後に印象派展から姿を消します。
ばらばらになっていく印象派の画家たち。
そんな中でピサロは一人の若い画家と出会います。
新印象派の画家としてして知られるジョルジュ・スーラです。
ピサロは印象派の手法に行き詰まりを感じており、スーラの点描の技法に可能性を見出したのです。
こうしてスーラの代表作でもある《グランド・ジャット島の日曜の午後》が第8回の印象派展に出品されたのです。
《わが家の窓からの眺め、エラニー=シュル=エプト》1888年
カミーユ・ピサロ
アシュモレアン博物館
ピサロは自分より30歳年下のスーラから影響を受け、自身も点描による作品を描いています。
ピサロが点描の作品を残していたのは意外ですね!
この《わが家の窓からの眺め、エラニー=シュル=エプト》は、スーラの《グランド・ジャット島の日曜の午後》と同じく、第8回の印象派展に出品されています。
晩年のピサロ
ピサロは晩年、目の病気が悪化し、医者から外出する事を止められます。
そこで自室の窓から見える風景を描くようになります。
《パリ、モンマルトル大通り》1897年
カミーユ・ピサロ
エルミタージュ美術館蔵
こちらは現在エルミタージュ美術館に収蔵されている晩年に描かれた一枚、パリのモンマルトルの街角を描いた作品です。
まだ寒さも残る春先のパリの光景。
モンマルトルの通りを馬車が活発に行き交います。
空や建物、そして道路に落ちた影。そのどの色彩も晩年のピサロが獲得した繊細な深みに満ちています。
晩年のピサロはこの作品のようなパリの眺めを何枚も描いています。
ピサロの最期
そして1903年、ピサロはパリで亡くなりました。
彼の葬儀にはかつて印象派として行動を共にしていたモネやルノワールも参列したと言われています。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
セザンヌは「ピサロは私にとって父のような存在だった」と後に回想しています。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
ゴーギャンもピサロのおかげで、世に出ることができました。
穏やかな性格と飽くなき探求心で、珠玉の作品を残した印象派の中の印象派、カミーユ・ピサロ。
彼の残した作品からは、多くの画家仲間に慕われた彼の人柄も伝わってくるかのようです。
今回の記事はここまでになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!