【美の巨人たち】黒田清輝「智・感・情」【美術番組まとめ】

美の巨人たち

2019年1月5日にテレビ東京にて放送された「美の巨人たち」の【黒田清輝「智・感・情」】の回をまとめました。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。

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イントロダクション

画画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

今回取り上げるのは洋画家の黒田清輝(1866-1924)、日本洋画界の礎を築いた人物です。

亡くなって100年近く経った今でも、日本の美術界に黒田の影響が根強く残っているといいます。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

東京・上野にある黒田記念館
遺産の一部を日本の美術に役立てよ」という黒田の遺言を守り、入館料は通常無料となっています。

今回の作品は2階の展示室にあります。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

こちらの《智・感・情(ち・かん・じょう)》という作品です。

縦1メートル80センチ、横1メートルの大きな画面に描かれた裸婦像です。
向かって右側からそれぞれ「智」「感」「情」となっています。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

右側の「智」は額に手を当てて、何か思い詰めた表情をしています。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

真ん中の「感」は、きっちりしたポーズをしていますが、その表情は”無”といった感じでしょうか。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

一番左の「情」では裸である事を恥じらうような仕草で、顔の表情もはっきりとそれを表しているようです。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

どの裸婦も肌には陰影が付けられ、写実的に表されています。
ところがまるで標本のよう、どこかリアリティに欠けている感じがします。

黒田清輝

黒田がこの作品を発表した頃、日本では”裸体画”はまだ芸術として認知されておらず、結果大論争を引き起こすことになりました。

黒田はなぜこの作品を描き、発表したのか。
そこにはある”野望”があったのです。

黒田清輝の生い立ち

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

明治という新しい時代になる二年前の1866年、黒田清輝(本名:きよてる)は鹿児島に生まれました。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

幼い頃に叔父である黒田清綱(きよつな)の養子となります。
清綱の家は薩摩の名家であり、また西郷隆盛とも親交があった維新の志士でもありました。

黒田清輝は上流階級の嗜みとして絵を習い始めます。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

18歳の時に法律家を志し、フランスに留学します。
フランスの法律を学び、国家を背負って立つ人間になってほしい」。
それが養父・清綱の願いでした。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

しかし黒田が留学中に力を入れたのは法律ではなく絵画でした。
彼はアカデミーの重鎮であるラファエル・コラン(1850-1916)に弟子入りします。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

めきめきと頭角を現した黒田は1891年、25歳の時に《読書》がフランスのサロンに入選します。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

その2年後にはこちらの《朝妝(ちょうしょう)》という作品で再びサロンに入選。
パリの画壇で評価を得て、日本に帰国するのです。

大批判!裸体画論争勃発

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

帰国から2年後、黒田は《朝妝》を第四回内国勧業博覧会に出品します。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

しかしその評価はフランスとは打って変わって、「醜怪」や「淫猥」などの”大批判の嵐”でした。

この時代の日本人にとって”裸体画”は芸術とは到底見なされておらず、春画のようにいかがわしいものであり、隠れて見るものだったのです。

そんな目を覆うような”裸体画”が展覧会場で堂々と展示されている。
当時の日本人には相当の衝撃だった事でしょう。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

当時活躍したフランス人画家、ジョルジュ・ビゴーがその時の様子を風刺した絵を残しています。
口を開け唖然とする者、見ていられないと顔を隠す者まで、いかに衝撃的であったかがこの絵からも分かります。

しかし当の黒田本人は批判に対して、一歩も引きませんでした。
友人に宛てた手紙には次のように書かれています。

どう考えても裸体画を春画と見なす理屈がどこにある。日本の美術の将来にとっても裸体画の悪いということは決してない。悪いどころか必要なのだ。道理上、俺が勝ちだよ

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

そして《朝妝》の裸体画論争から二年後に発表されたのが、《智・感・情》だったのです。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

”智”は理想主義を表し、”感”が印象主義、そして”情”は写実主義を表している、と黒田は言います。

黒田の狙いについて東京文化財研究所・塩谷純氏は次のように語ります。
裸体画を日本に根付かせる』というのが第1ステップだという事であれば、第2のステップとして『絵が思想を語るという考え方』を普及させる狙いがあったと思います

フランスに渡った黒田は、「裸体画が思想を伝える表現手段の一つである」という事を学びました。
しかし、当時の日本人には「何を描いているのかわからない」という拒絶反応を植え付けてしまったのです。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

ヨーロッパでは古代の時代から、裸婦像は”美の象徴”であり、重要なモチーフでした。


《ヴィーナスの誕生》1483年頃
サンドロ・ボッティチェリ
ウフィッツィ美術館蔵

近代以前、ヨーロッパでは神話の登場人物などが裸婦の姿で描かれました。
ルネサンス期に活躍したサンドロ・ボッティチェリは、優美な裸婦像で幻想的な世界を表しています。

しかしこの時点ではまだ一般市民のヌード姿は描かれてはいません


《草上の昼食》1862-63年
エドゥアール・マネ
オルセー美術館蔵

その流れに一石を投じたのが、”印象派の父”と呼ばれるエドゥアール・マネでした。
マネ黒田が生まれるわずか4-5年前の1862年から1863年にかけて《草上の昼食》を描きます。
(《智・感・情》が描かれたのは1897年です)

この《草上の昼食》も批判の対象となりますが、新たな裸体表現として注目を浴びます。

一方日本では、20世紀目前という時代でありながら、「裸体画=春画」としか見なされていませんでした。
これに黒田は危機感を抱いたのです。

裸体画の表現を日本に持っていかないと、日本は一等国として認められない。西洋美術の本流を日本に根付かせようと躍起になっていた」(東京文化財研究所・塩谷純氏)

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

智・感・情》という作品にはそんな黒田の狙いが込められていたのです。

裸体画で果敢な挑戦

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

黒田は明治29年、発足したばかりの東京美術学校・西洋画科に教師として迎えられます。
彼の教え子には、青木繁藤田嗣治萬鉄五郎といったそうそうたる画家がいました。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

黒田は教育者として、それまでの日本にはない”ある教育法”を実践しました。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

それが「石膏デッサン」と「ヌードデッサン」です。
今でも行われるこの教育法は黒田によって西洋から日本に初めて持ち込まれました。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

それまでの絵の勉強法といえば、お手本となる作品を”模写”することが基本でした。
しかし黒田実際に目の前に対象を描く事に重きを置いたのです。

黒田の時代から100年以上経った今でも、絵の勉強法として今なお残っている「石膏デッサン」と「ヌードデッサン」。
いかに黒田清輝という画家が偉大な存在であったか、こういった部分からも感じ取れるのです。

ありえない体型の秘密

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

智・感・情》で描かれているのは日本人の女性です。
しかしこのようなスタイルの女性は当時の日本の一般的なものではありません

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

明治時代の日本人女性は、平均6頭身であったといいます。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

一方智・感・情》の女性は7.5頭身で描かれています。
見たままを描くデッサンを重要視した黒田は、なぜ当時の日本人女性像とはかけ離れた姿を描いたのでしょう。

黒田はフランス留学中に師匠であるコランのもとで、数多くのヌードデッサンをこなしていました。
智・感・情》に取り入れたのは、目の前のモデルのそのままの姿ではなく、留学時代に培った西洋美術の目線による理想的な裸体像だったのです。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

こちらはあの万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた『ウィトルウィウス的人体図』。理想的な人体の比率を表しています。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

そこに『』の女性を合わせると、ほぼピタリと重なります。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

平成14年には《智・感・情》の赤外線調査が行われました。
この調査により黒田は理想的な人体を表すために、完成後も何度も手を加えていたことが分かりました。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

例えば《》の女性では、左胸の乳房の位置を上にあげて、バランスを調整しています。

他にも同じ《》の額に置いた指の位置を微調整したり、《》では足の量感を増すように描き加えているのです。

黒田はなぜ《智・感・情》の細部にまでこだわったのでしょうか?
じつは画家には壮大なる野望を成し遂げるために、そこまでしなければならない理由があったのです。

赤い輪郭線と金色の秘密

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

智・感・情》は写実的な裸婦像ですが、にもかかわらず、なんと輪郭線が赤いのです。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

背景も現在は剥落してしまっていますが、かつては金箔、あるいは金泥が施されており、まばゆいほどの煌めきでした。

じつはこの”赤い輪郭線””金地の背景”こそ、黒田の野望に不可欠なものでした。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

そのルーツは日本美術にありました。

背景の金地は総金地(そうきんじ)と呼ばれる、古くから屏風などに使われる表現です。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

一方の赤い輪郭線は、日本古来の仏画にルーツがあると考えられています。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

つまり黒田は西洋的な姿の裸婦を描きながらも、日本独自の表現方法を《智・感・情》盛り込んでいるのです。

世界に認めさせた裸婦像

発表から3年後の明治33年。
その間にも手を加えられ続けた《智・感・情》は海を渡ります。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

舞台はパリ万国博覧会。
黒田の描いた《智・感・情》と《湖畔》が日本の洋画の代表として出品されたのです。
そして、これこそが”黒田の最大の目的”でした。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

日本の洋画の水準を世界に認めさせること
それこそが黒田の真の狙いだったのです。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

洋画でありながらも、和の伝統を取り入れた《智・感・情》。
この作品は万博で銀牌を受賞します。

本場の洋画のスタイルを日本に持ち帰り、そこから”日本洋画界のドン”として、近代洋画を率いる使命に燃えた黒田
万博出品は彼のゆるぎない挑戦だったのです。

画像出展元:テレビ番組「美の巨人たち」より

日本に本場の洋画を持ち込もう
黒田はそれだけではなく、「日本の洋画を発展させて、世界に認めさせる」。
そこまで考えていたのです。

”言い出したら聞かない”そんな黒田の気性があったからこそ、成し遂げられた偉業だったのでしょう。
世界と対峙し、国を背負って戦った男の残した偉大な足跡こそ、《智・感・情》だったのです。

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