2020年3月15日にNHKで放送された「日曜美術館」の【真を写す眼 渡辺崋山】の回をまとめました。
番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
イントロダクション
国宝《鷹見泉石像》天保8年(1837年)
渡辺崋山
東京国立博物館蔵
こちらは江戸時代後期に描かれた肖像画の傑作、国宝《鷹見泉石像》です。
(読み方は「たかみせんせき」です)
本日取り上げる画家は、この肖像画を描いた渡辺崋山(わたなべかざん)です。
この《鷹見泉石像》では、ただ外見を描くのではなく、その内面までも描ききっていると言われています。
《渡辺崋山像》嘉永6年(1853年)
椿椿山(つばき ちんざん)筆(崋山の弟子)
重要文化財
愛知県、田原市博物館蔵
渡辺崋山(1793-1841)は愛知県にあった田原藩の武士であり、画家としても活躍をした人物です。
崋山は常に手帖を携え、身の回りのありとあらゆるものを写生したといいます。
その手帖は全部を積み上げると、背の高さ程にもなるとか。
この地道なスケッチが崋山の観察眼を生み出しました。
崋山の家庭は貧しく、絵を描くことで生計を立てていました。
また武士としては家老という要職に就き、農民を飢餓から救い活躍しました。
しかし晩年は『慎機論(しんきろん)』という私文書で幕府を批判した事により捕らえられ、最期は切腹し、その生涯を終えるという波乱の人生でした。
渡辺崋山の生い立ち
現在の最高裁判所のある所に、三河国・田原藩の江戸藩邸がありました。
寛政5年・1793年に渡辺崋山はこの地で生を受けました。
寛政5年というと、日本では江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の治世です。
また西洋では、フランス革命によりルイ16世や王妃マリー・アントワネットが処刑された年でもありました。
この肖像画は崋山の死後12年経って描かれたもので、数え45歳のときです。
この45歳頃は画家としての名声が高まり、武士としても家老という要職に就いていました。
その後崋山は画業に専念したいという思いから、家老を辞職したいという手紙(退役願書稿)を残しています。
ここで自らの人生を振り返っています。
『父親が病気のため、高価な薬を買う必要があります。
日々の食事にも困り、大抵のものを質に入れる必要があり、
親戚からも借金する有様でした。
幼少の兄弟7人は、奉公に出したり出家させたりしました』
崋山は家計を助けるために、画家の金子金陵(かねこきんりょう)に弟子入りし、絵を学びました。
崋山の初期作品
画像出展元:田原市博物館ホームページより
こちらは崋山の初期の花鳥画です。
背の高いアシの根元に二羽のカモが休んでいる様子を描いています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こちらの《一掃百態図》は崋山が26歳の時に僅か1日2晩で描き上げた冊子です。
ここでは江戸の人々の暮らしぶりが、素早い筆さばきで生き生きと描かれています。
その中の一枚、寺子屋の風景を描いた作品をご紹介します。
賑やかな子どもたちの声が聞こえてくるような、躍動感にあふれた一枚です。
ちゃんと勉強する子もいれば、習字の練習をそっちのけで筆を加えたりあくびをしている子、挙句取っ組み合いをしている子と、一人一人丁寧に描き分けています。
崋山の肖像画作品
《佐藤一斎像》文政4年(1821年)
渡辺崋山
重要文化財
東京国立博物館蔵
《一掃百態図》を描いてから3年後、会得した写生の力を存分に発揮して肖像画の傑作を描きます。
モデルとなった佐藤一斎は名高い儒学者で崋山自身も教えを受けていました。
太い眉毛にしっかりと前を見つける眼差し。
口周りには、濃い髭の剃り跡が残ります。
全体的に非常にリアルな仕上がりで、佐藤一斎の人となりまでよく表現されています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
崋山はこの肖像画を描くにあたり、何枚もデッサンや下絵を描きました。
こちらは「第二」と記された下絵です。目つきも本画よりするどく描かれています。
この作品では少なくとも11枚の下絵が描かれました。
崋山は後に絵を描く際の心がけを次のように述べています。
『心を一つのことに集中すること。
髪の先、爪の橋まで描こうという気にならなければいけない』
父親の死と天保の大飢饉
崋山は田原藩の藩主としての勤めのかたわら、借金の返済に追われていました。
そこで自分の絵を売り、生活の足しにしていました。
病気の父親が亡くなった33歳のころ、保養の目的で千葉の銚子まで旅にと出ます。
その旅のスケッチが巻物として残されています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」
その後崋山は40歳で田原藩の家老の一人となります。
この時まさに天保の大飢饉が迫っていました。
崋山は飢饉に備えて、「報民倉(ほうみんんそう)」と呼ばれる倉を作り、そこに米を蓄えました。
そしていよいよ飢饉が来た時に、崋山は蔵米で農民たちを救いました。
こうして崋山の施策により、村から一人の餓死者も出さず、幕府にも全国で唯一表彰されることとなるのです。
崋山の言葉です。
「一人でも飢え死にする者が出たら、それは殿様の罪です。
農民は国のもと。農民がいるから殿様も贅沢をすることができます。
飢饉で農民が亡くなれば、田畑は荒れて年貢の米も入ってこないのです」
画家としてだけではなく、武士・家老としても
優れた人物だったのですね!
パート1はここまでです。
パート2へと続きます。こちら☚からご覧ください。
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