2020年3月15日にNHKで放送された「日曜美術館」の【真を写す眼 渡辺崋山】の回をまとめました。
番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
こちらはパート2になります。前回のパート1はこちら☚からご覧いただけます。
国宝《鷹見泉石像》の凄さ
国宝《鷹見泉石像》天保8年(1837年)
渡辺崋山
東京国立博物館像
渡辺崋山の代表作《鷹見泉石像》は天保の飢饉の頃に描かれました。
モデルとなった鷹見泉石は渡辺崋山の知人の蘭学者です。
正装姿で描かれており、じっと前を見つめるその視線は真に迫る様子です。
しかし一見するとただの肖像画ですが、なぜ国宝にまで指定されていいるのでしょうか?
その答えは顔の表現にありました。
この《鷹見泉石像》では顔に当たる光を意識して描いており、それはこれまでの肖像画とは全く異なる点なのです。
《佐藤一斎像》文政4年(1821年)
渡辺崋山
重要文化財
東京国立博物館蔵
《鷹見泉石像》が描かれる約15年前に描かれたこの《佐藤一斎像》と比較すると、より違いが分かります。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」
《佐藤一斎像》に比べて《鷹見泉石像》は線に頼らずに、光の陰影によって表現されているのです。
《佐藤一斎像》はこの部分を二本の線によって表していますが、《鷹見泉石像》の方は線ではなく、墨を塗ることでその凹みを表しています。
これは光が当たってるかどうかという事でしか、有り得ない表現なのです。
それ以外の箇所でいうと、頬骨の部分や鼻の影の部分です。
頬骨から後ろ側に影ができているのが分かります。
鼻の向こう側にも同様に影が出来ています。
崋山は物理的に光がどのように当たっているかを計算しながら、《鷹見泉石像》の凹凸を表現しているのです。
この間崋山は西洋の銅版画を模写しながら、光を取り込む表現を身につけていきました。
崋山は蘭学者としての一面も持っており、西洋社会に興味を持っていたのです。
モリソン号事件と慎機論
江戸時代後期になると外国船が日本の周辺に頻繁に出没するようになっていきます。
幕府は異国船打払令を出し、それらを問答無用で撃退する方策を取っていました。
1837年(天保8年)、浦賀と鹿児島に現れたアメリカの商船「モリソン号」も同政策の下、日本側が攻撃を行います(これはモリソン号事件と呼ばれています)。
しかしモリソン号は非武装の商船であり、また漂流した日本人を送り届けることを目的としていたため、異国船打払令に対する批判が強まります。
蘭学の研究をし、西洋知識の吸収に努めていた崋山は、幕府のこの政策や一連の事件に危機感を募らせていました。
47歳の時に崋山は突然逮捕されます。
その目的は蘭学者たちへの弾圧でした。
崋山の罪状は申し開きのできるものばかりでしたが、その後家宅捜索が行われ、密かに書いていた幕府批判の文章(慎機論(しんきろん))が見つかってしまい、断罪の根拠にされてしまいます。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
崋山は捕らえられた奉行所での様子を描き残しています。
そして彼に下された判決は、田原(愛知県)での蟄居(ちっきょ)(刑罰として自宅に謹慎させられること)でした。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こうして生まれてからずっと江戸で暮らしていた崋山は、家族と共に田原へ移住します。
だから《渡辺崋山像》は田原市博物館が
所蔵しているんですね!
崋山はそこで絵を描いて生計の足しにしました。
また身の回りの動物や虫のスケッチにの熱心に励みました。
それらを基に崋山は次のような花鳥画の傑作も残しています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
この「虫魚帖(ちゅうぎょちょう)」は最も信頼する弟子であり、友人でもあった椿椿山(つばきちんざん)に送られました。
崋山の最期
田原での生活を始めて1年半が過ぎた頃、蟄居の身にもかかわらず絵を売りさばいているという噂が広まり始めます。
崋山は藩主に迷惑を掛けたくないという思いから、自決をしました。
画像出展元:国指定文化財等データベースより
この書は崋山が自決する直前書かれたものです。
「不忠不考渡邉登(ふちゅうふこうわたなべのぼり)」と書かれています。
「渡邉登」の「登」は藩主から賜った崋山の名です。
書の左側には以下のような文章が小さく書かれています。
「罪人なので墓碑を建てることができない。
なので代わりに自らかいた」
崋山亡き後
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
49歳で自らその生涯を終えた渡辺崋山。
その後最愛の弟子の椿椿山によって彼の肖像画が描かれます。
椿山は師匠に倣って、その肖像画を仕上げるまでに多くの下絵を描きました。
そしてようやく完成したのが死から12年後、崋山の13回忌の時でした。
そしてそれから崋山の罪が許され、墓碑が建てられるまで15年(1868年、明治元年)の歳月(亡くなってからだと27年の歳月)がかかりました。
さいごに
いかがでしたでしょうか、渡辺崋山。
《鷹見泉石像》が国宝だと知った時には、「どうしてこんな普通の肖像画が国宝にまでなっているのだろう?」と不思議に思いましたがそういう理由だったのですね。
是非いつか実物を見てみたいですね♪
最後までご覧頂きありがとうございました。
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コメント
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