【ぶらぶら美術・博物館】ブダペスト展③【ハンガリーの近代絵画】

ぶらぶら美術・博物館

2020年1月7日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#334 ブダペスト展】の回をまとめました。

パート3ではハンガリーの近代絵画についてご紹介します。
番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。

前回までの記事はこちらからご覧頂けます☟☟
【ぶらぶら美術・博物館】ブダペスト展①【クラーナハ(父)の作品】
【ぶらぶら美術・博物館】ブダペスト展②【イタリア絵画・スペイン絵画】

スポンサーリンク

《漁師たち》マルコー・カーロイ(父)


《漁師たち》1851年
マルコー・カーロイ(父)
ブダペスト、ハンガリー・ナショナル・ギャラリー蔵

こちらの作品、パッとみてどの辺がハンガリーの近代絵画なのか、わかりますでしょうか?
おそらく絵画に詳しい方ほど、近代ではなく17世紀頃の一昔前の作品に感じられると思います。


《パリスの審判》1645-46年頃
クロード・ロラン
ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵

*こちらの作品は「ブダペスト展」には出展されてません。

例えば上の作品ですがマルコー・カーロイ(父)の作品からおよそ200年前
17世紀のクロード・ロランの作です。
雰囲気が似ているのがお分かり頂けるかと思います。

マルコー・カーロイ(父)は、19世紀の前半から活躍したハンガリーの風景画家です。
マルコーハンガリーの風景画の改革者と言われるほど重要な画家です。
当初はウィーンで絵画を学んだ後、イタリアへと渡ります。

この《漁師たち》では、陽の光を背景に丁度漁師たちが舟に乗って帰ってきたところを描いています。
17世紀のフランスの古典的な風景画から着想を得て、そのアカデミックなスタイルで描かれた作品です。

19世紀の前半のハンガリーの画家はウィーンで絵の勉強をすることが多かったといいます。
この当時ウィーンは中央ヨーロッパの美術の中心地でアカデミーもありました。

マルコーイタリアでも人気を博しましたが、1850年代にはメキシコで展覧会を開催するなど国際的な名声を得た、ハンガリー初の画家と言えます。

この17世紀らしい古臭さは、あえての古臭さと言っていいかもしれません。
時代背景から考えると確かに古いですが、逆にいうと真新しいものよりも多くの人に受け入れやすい作品と言えるのではないでしょうか。

《紫のドレス婦人》シニェイ・メルシェ・パール


《紫のドレスの婦人》1874年
シニェイ・メルシェ・パール
ブダペスト、ハンガリー・ナショナル・ギャラリー蔵

今回の「ブダペスト展」メインビジュアルにもなっている作品です。
人によっては「綺麗な色だな」と感じる人も、「色がどぎつい」と感じる方もいるでしょう。

ハンガリーにとって大変重要な画家であるシニェイ・メルシェ・パール1874年の作品です。
ハンガリーの田舎の田園風景の中に、自分の奥さんをモデルにして描いています。

画面が明るく、また屋外で描かれたこの作品は印象派を彷彿とさせます。
この作品が描かれた1874年は「第一回印象派展」が開かれた年でもあります。
けれどもシニェイ・メルシェは、印象派から影響を受けたわけではありません

実はこのシニェイ・メルシェ出てくるのが早すぎた画家」と言われています。
実際にこの作品も当時のフランス印象派と同様に、当初は新しすぎたため、理解も評価も得られませんでした。

19世紀前半の画家はウィーンに留学しハンガリーに戻るのが主流だと申しましたが、
19世紀後半になるとオーストリアとハンガリーの政治的な緊張もあり、パリもしくはミュンヘンが主な美術の留学先になります。
シニェイ・メルシェもドイツのミュンヘンに留学しそこで絵画を学びました。
ですので、印象派の画家との交流はもちろん、印象派の動きもほとんど把握していなかったと考えられます。

つまりシニェイ・メルシェは独自に印象派と同様の試みに取り組んだ、先見的な画家なのです。


《ヴァイオリンを弾く死神のいる自画像》1872年
アルノルト・ベックリン

*こちらの作品は「ブダペスト展」には出展されてません。

ミュンヘン留学中には画家のアルノルト・ベックリンとも交流がありました。
アルノルト・ベックリンデ・キリコが影響を受けた画家として知られています。

てかこの絵、かっこよすぎでしょ・・・

《5月のピクニック》シニェイ・メルシェ・パール


《5月のピクニック》1873年
シニェイ・メルシェ・パール
ブダペスト、ハンガリー・ナショナル・ギャラリー蔵

*こちらの作品は「ブダペスト展」には出展されてません。

紫のドレスの婦人》の一年前にミュンヘンで描いた作品がこちらです。
こちらの作品はどこかエドゥアール・マネを彷彿とさせませんでしょうか?

《草上の昼食》っぽいね!

学芸員の方曰く「おそらくマネの絵を見る機会はなかった」であろうとのことです。
シニェイ・メルシェが独自に同時代の印象派らしい作品を描いていたという事になります。

ちなみにこの作品、ハンガリー美術史を語る上で欠かす事のできない重要な作品とされています。
門外不出とされており、今回の「ブダペスト展」でも貸し出しをお願いするのは恐れ多いくらいだったそうです。

《ヒバリ》シニェイ・メルシェ・パール

*画像準備中です
《ヒバリ》1882年
シニェイ・メルシェ・パール
ブダペスト、ハンガリー・ナショナル・ギャラリー蔵

《紫のドレスの婦人》から8年後に描かれた作品です。
画家としての再起をかけてウィーンへと発ち、そこで描かれた作品です。

大空を一羽のヒバリが優雅に飛び、それを草原に横たわる裸の女性が見ている、という構図です。
見ていると新しいのか古いのか、上手いのか下手なのか分からなくなる、妙な作品です。
シュールレアリスムにも見えてきます。

1882年に描かれたこの作品は、ウィーンとブダペストの両方で発表されました。
しかしそのどちらでも評価はされませんでした。

エドゥアール・マネが1863年に《草上の昼食》で裸の女性を描いてスキャンダルを巻き起こしてから約20年の歳月が流れていましたが、ウィーンやブダペストではまだ女性のヌードに対する理解がされていませんでした
この作品でも評価を得られなかったシニェイ・メルシェは二年後の1884年に画家を辞めてしまいます

しかし、それから12年後に転機が訪れます。
1896年に「ハンガリー建国千年祭」の一環で、ハンガリー美術の大規模な展覧会が開かれました。
そこにシニェイ・メルシェの作品が出品されたのです。

そこでシニェイ・メルシェを知らない若い画家たちによって再評価の機運が高まり、彼が評価されるようになりました。

まるで、ポール・セザンヌみたいですね

その時点でシニェイ・メルシェの年齢は50代前半でした。
以降、評価が定まり最終的にはハンガリーのアカデミーの学長にまで上り詰めました

《フランツ・リストの肖像》ムンカーチ・ミハーイ

 
《フランツ・リストの肖像》1886年
ムンカーチ・ミハーイ
ブダペスト、ハンガリー・ナショナル・ギャラリー蔵

ハンガリー出身の作曲家リストを描いた肖像画です。
リストは手が大きく、また指も長かったので、普通の人は彼の曲を演奏することができない、と言われているそうです。
74歳の頃の肖像画で、彼が亡くなる4か月前の姿です。

描いたのはリストと同じハンガリー出身の画家のムンカーチ・ミハーイです。
ムンカーチは元々はハンガリーで絵画を学んでいましたが、1870年にドイツのアカデミーで学び、26歳の時にはパリのサロンで金メダルを受賞します。
そして1882年にブダペストで展覧会を開くために凱旋帰国をするのです。

ムンカーチリストブダペストで出会い、親しくなりました
二人の年齢は30ほど離れていましたが(リストの方が年上)、それでも仲が良く、ムンカーチのためにピアノ曲を制作(ハンガリー狂詩曲 第16するほどでした。

この肖像画はパリで描かれました。
描かれた1886年はリストが75歳を迎える歳で、パリで幾つかの催しが開かれました。
パリで再開し、その後ムンカーチはおよそ2週間でこの作品を描き上げました。

コメント

  1. […] パート2はここまでです。 パート3では、「ハンガリーの近代絵画」についてまとめていきます。 【ぶらぶら美術・博物館】ブダペスト展③【ハンガリーの近代絵画】 […]

  2. […] 前回(パート3)の記事はこちらからご覧頂けます☟☟ 【ぶらぶら美術・博物館】ブダペスト展③【ハンガリーの近代絵画】 […]

タイトルとURLをコピーしました