【アート・ステージ】松方コレクション【美術番組まとめ】

アート・ステージ

2019年6月22日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【松方幸次郎 ヨーロッパに名を轟かせた稀代の日本人コレクター】の回をまとめました。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪

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イントロダクション

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

パリにあるオランジュリー美術館
その壁一面を覆うモネの『睡蓮』。

睡蓮の間』はオランジュリー美術館を象徴する展示室です。

水の画家”と呼ばれたクロード・モネが自身の集大成としてこの大作を手掛けている頃、実際に彼の元を訪ねた日本人がいました

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

それが今日の主役、松方幸次郎(1866~1950)。
日本に数多くの傑作をもたらした大コレクターです。
しかし、その珠玉のコレクションは時代の波に翻弄されました。

今回は稀代のコレクターとしてその名をヨーロッパ中に轟かせた、松方幸次郎が集めた作品、そしてその生涯についてまとめていきます。

生い立ち~収集家になるまで

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

松方幸次郎は1865年に鹿児島で生まれます。

松方幸次郎の父、松方正義は内閣総理大臣も務めた政治家でした。
また正義は子沢山でもあり、最終的に男15人、女子7人をもうけます。
松方幸次郎は三男として生まれました。

松方は幼少の頃は非常にわんぱくな子供だったといいます。
ある時、高い所から飛び降りたせいでアキレス腱を切断。その後遺症により、終生ステッキが必要な身になりました。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

青年時代の松方はアメリカの大学に留学。さらに卒業後は、ヨーロッパに渡ります。
当時のヨーロッパは、植民地から得た富を元手に、産業革命を達成。繁栄の絶頂を極めていました。

3カ月のヨーロッパ滞在を終えた松方は1890年、24歳の時に帰国。
父の秘書を務めた後、30歳の若さで川崎造船所の初代社長に就任します。

経営に才能を発揮した松方は、順調に事業を拡大。日清戦争以降の大きな戦争による船舶需要の高まりにのって、業績は急成長しました。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

そんな松方が美術作品の収集を始めたのは、ロンドンにいた1916年頃のことです。
とあるイギリス人画家と知り合い、仲良くなったのがそのきっかけと言われています。

以降、松方は美術品収集にかなりの力をいれていきます。
その熱はすさまじく、収集を始めた最初の2年で1000点以上の作品を購入したといわれます。

イギリスの画家ブラングィンが描いた松方

その買い方は豪放磊落で、画廊を訪れた松方は「ここからここまで!」とステッキで指して、一気に購入したといいます。
そんな松方の名はすぐにヨーロッパ中に広まりました。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

1919年には、”近代彫刻の父”と呼ばれるオーギュスト・ロダンの彫刻作品38点を73万4000フラン(現在の約7億円!!)で購入しています。


《アルルの寝室》1889年
フィンセント・ファン・ゴッホ
オルセー美術館蔵

ロンドンで美術収集を始めてから5年後の1921年、松方はパリを訪れます。

パリの老舗画廊、「デュラン=リュエル画廊」を訪れた松方は、ゴッホの《アルルの寝室》やルノワールの《アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》、同じくルノワールの《帽子の女》など、コレクションの中核となる重要な作品を購入しています。


同年9月、当時61歳のクロード・モネのアトリエに足を運びます。
画家本人に直接会い、作品購入の交渉を行うためでした。

モネが自宅に置いていた作品は本人お気に入りのもので、本来手放すつもりのないものでした。
しかしモネ松方の熱意に押され、「そんなに私の絵が好きなら」と松方に作品を譲ったのです。

こうしてモネから18点の作品を直接購入します。

松方の夢、日本初の西洋美術館の建設と挫折

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

そんな松方には一つの”夢”がありました。
自分が集めた作品を元にした美術館を造ることでした。

数多くの作品を集めた松方ですが、彼はそれらを私物化するのではなく、西洋美術を学ぶ日本人学生に”ホンモノの西洋美術”を見せてやりたいと考えていたのです。

文化の成熟こそが将来、経済の発展へつながる」という信念が松方にはあったのです。

美術館の名前の候補はいくつかあり、その中には「松方美術館」というものもありましたが、松方はそれを一蹴。”日本と日本人のため”という意味を込めて、「共楽美術館」となりました。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

しかし、美術館建設の夢は実現する事はありませんでした

1927年の世界恐慌。これにより川崎造船所は経営破綻してしまいます。
そして負債整理のために国内のコレクションは売却され、散逸する事となったのです。

一方で、海外に保管されていたコレクションは売却されませんでしたが、それらも無事ではありませんでした。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~より

ロンドン市内のパンテクニカン倉庫に保管されていた作品は、1939年の火災により焼失してしまいます。
当時の記録では、失われた作品は約400点、およそ200万円(当時の金額)の被害だったと残されています。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

パリに保管していた作品も、第二次大戦後にフランス政府に押収されてしまいます

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

フランス政府に押収された作品が日本に返還されたのは、終戦から15年近く経った1959年の事。
返還された375点の作品を展示する場所として造られたのが、現在の国立西洋美術館(東京・上野)なのです。


しかし、こちらのゴッホの《アルルの寝室》を含む20点の重要な作品は、返還交渉の結果、フランスに留め置かれる事になりました

もしかしたら、《アルルの寝室》が日本の美術館にあったかもしれないんですね…
残念。。。

世界恐慌、第二次世界大戦と歴史の波に翻弄され、また倉庫の火災といった不運にも見舞われた松方コレクション

しかし2016年に、松方コレクションにまつわる嬉しいニュースがありました。

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