2019年6月15日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【フェリックス・フェネオン 「新印象派」の名付け親 七色の顔を持つ男」】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
イントロダクション
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
19世紀末から20世紀前半にかけて、フランスでは次々に新しい絵画表現が生まれました。
「印象派」もその一つです。
この新たな流れは画家の力だけで生まれたものではありません。
エミール・ゾラといった小説家や、ステファヌ・マラルメといった詩人といった当時の文化人も大きな推進力となりました。
今回取り上げるのは、フェリックス・フェネオン(1861-1944)。
彼は批評家・コレクター、そして画商の顔を持っていました。彼もまたこの新しい美術動向の発展に貢献した一人なのです。
画家スーラとの関わり
批評家として、また画商としての顔を持つフェリックス・フェネオン。
そんな彼が最も敬愛した画家が、新印象派の画家のジョルジュ・スーラ(1859~1891)です。
スーラといえば、彼の代表作《グランド・ジャット島の日曜日の午後》はたいへん良く知られています。縦約2メートル、横幅3メートル弱の大作です。
描かれているのは、パリ郊外の光景。セーヌ川の中州で夏の日の午後を過ごす人々です。
《舟遊びをする人々の昼食》
ピエール=オーギュスト・ルノワール
フィリップス・コレクション蔵
「自然の中で休日を楽しむ人」というのは、印象派お気に入りの画題でした。
こちらのルノワールの作品では、その名の通り、休日に舟遊びを楽しむ人々の姿を描いています。
しかし新印象派のスーラの作品は、ルノワールをはじめとする印象派の画家たちの作品とはどこか様子が違います。
「印象派の画家」はその名の通り、”自分の印象や直感”を基準にして色彩を捉えました。
一方でスーラは、”最新の科学理論”に基づいて、的確な配色を無数の点で表現する「点描法」を用いたのです。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
スーラはこの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を、1886年5月に行われた第8回印象派展に出品します。
しかしこの絵は激しい非難と嘲笑を浴びるばかりでした。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
そんな中、フェネオンただ一人がスーラを「新印象派」と名付け、彼を擁護したのです。
しかし、スーラは《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を描いた5年後、31歳の若さでこの世を去るのです。
スーラの熱烈な擁護者だったフェネオンは、彼の死から9年後の1900年、その業績を讃えるために回顧展を開催します。
これがきっかけとなり、フェネオンは批評家から画商へと美術との関わりを変えていくのです。
無政府主義者としてのフェネオン
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
フェリックス・フェネオンは陸軍省に務める官僚としての一面もありました。
その仕事の傍ら、前衛的な文学者との交流を深めて、芸術雑誌の編集や執筆を手掛けるようになります。
優秀な官僚として、そして新しい芸術の理解者として生きたフェネオン。
しかしそんな彼からは想像もつかない、意外な事件が起こります。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
1894年、フェネオンの元に警察がやって来ます。彼は爆弾テロ事件の犯人として、逮捕されるのです。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
当時のフランスでは、文学者や芸術家の間で「無政府主義」という考え方が広まっていました。
最新の発明品であるダイナマイトを使ったテロ事件が、無政府主義者によって頻繁に起こされていたのです。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
特に1890年代はひどく、「爆弾の10年」と呼ばれるほどでした。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
フェネオンもまた無政府主義支持者でした。
同志のテロ行為を手助けするにとどまらず、自らも爆弾を仕掛けるに至ったのです。
裁判の結果、フェネオンは証拠不十分で釈放されます。
しかし、当然のごとく陸軍省での仕事は失います。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
以降は批評家として、新しい芸術を擁護する文章を数多く執筆していくのです。
画家シニャックとの関係
若い画家にとってフェネオンは心強い味方でした。
彼への敬意と友情を込めて、スーラと同じ新印象派のシニャックが彼の肖像画を描いています。
《七色に彩られた尺度と角度、色調と色相のリズミカルな背景のフェリックス・フェネオンの肖像》1890年
ポール・シニャック
ニューヨーク近代美術館
様々や色や柄で描かれたポップな背景。
そこにシルクハットとステッキを持つ、いかにも”紳士”な姿のフェネオンが描かれています。
非常に現代的なセンスを感じるこの作品。
とても19世紀に描かれたものとは思えません。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
特徴的な顎ひげは彼のトレードマークでした。
手にしている花はシクラメン。花言葉は「内気や遠慮」。
あまりフェネオンにはピンと来ない花言葉ですが、もしかするとシニャックら親しい人の前では、そういった一面も見せていたのかもしれません。
画商としてのフェネオン
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
フェネオンは1904年からパリのベルネーム=ジュヌ画廊で、画商として働き始めます。
この画廊は、印象派をはじめとする新たな芸術を積極的に支援しました。
フェネオンはこの画廊で1904年から20年間勤務をします。
ちょうどこの頃のフランスは、様々な天才の出現によって美術の最先端を走っていた頃でした。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
フェネオンが扱った画家は、セザンヌやボナール、マティス、そしてピカソといずれもビッグネームばかり。
彼がいかに審美眼のある人間だったかが分かります。
今回の記事はここまでになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。