【ぶら美】京都・智積院の名宝①【美術番組まとめ】

ぶらぶら美術・博物館

2023年1月10日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#424 寺外不出の国宝・重文!「京都・智積院の名宝」~長谷川等伯一門が描いた国宝障壁画ほか、多彩な名宝を一挙公開!~】の回をまとめました。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。

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イントロダクション:京都・智積院の名宝

今回は東京・六本木のサントリー美術館で2023年1月22日まで開催の展覧会『京都・智積院の名宝』についてまとめていきます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

京都にある智積院
その前身は祥雲禅寺という寺院で、豊臣秀吉が幼くして亡くなった息子・鶴松の菩提を弔うために建てたものです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

智積院には長谷川等伯とその一門が描いた障壁画の傑作が納められており、今回の展覧会ではその貴重な作品の数々が展示されています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

展覧会の見どころは長谷川等伯の描いた国宝《楓図》と、その息子・久蔵が描いた《桜図》が並んで公開されていることです。
お寺の外でこの二作が並んで公開されるのは初めてのことです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

展示作品数は全73件となっており、そのうちの10件が寺外初公開となっています。

第一章 空海から智積院へ

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

展覧会の第一章では、智積院の祖師たちにまつわる展示から智積院の歴史を紐解いていきます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

真言宗智山派(しんごんしゅうちさんは)の寺院である智積院。
その歴史のそもそも始まりは、真言宗を開いた空海(弘法大師)になります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

空海が亡くなった後、平安時代末期に活躍したのがこちらの覚鑁(かくばん、1095-1144)というお坊さんです。
覚鑁は当時勢いを失っていた高野山を盛り立てた「中興の祖」と呼ばれています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

その覚鑁が修業の場所として根来寺(ねごろじ)を開き、ここが根本道場となります。
根来寺には全部で2900の建物があり、お坊さんの数も6000人ほどといたといいます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

その根来寺の中でも学頭持院と呼ばれたのが「智積院」だったのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

しかし桃山時代に入り、あまりにも力を持ちすぎてしまった根来寺は豊臣秀吉によって焼き討ちされてしまいます

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

その焼き討ちの際に玄宥(げんゆう)という名の僧侶が、命からがら逃げだします。
そして江戸時代に入り、玄宥は徳川家康から京都・東山の豊国神社が持っていた土地に智積院を建てることを許されるのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

元々は秀吉が息子を弔うために建てた祥雲禅寺を、家康は丸ごと智積院に与えたのです。
そこには家康の「豊臣家に関わるものをなくしていこう」という狙いがあったと考えられます。

そういった経緯から、祥雲禅寺にあった長谷川等伯とその一門による障壁画も智積院へと受け継がれるのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

障壁画をはじめとする智積院に伝わる品々が記録されたのがこちらの目録。
1705年に当時の智積院の住職が書き記したものです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

この目録に「長谷川等伯の障壁画群(93枚)が智積院に残されていた」と記録されています。
さらにそれらの大半が享保12(1727)年に襖絵や屏風に仕立て直されたと書かれています。

じつはそれより45年前の天保2(1682)年に智積院は火災に遭っており、大半の作品はなんとか助け出されます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

その後、助け出された作品は「まくり」と呼ばれる”そのままの紙の状態”で保存されており、その後に襖に仕立て直されたと書かれています。

今回の記事はここまでになります。
続くパート2では、それら仕立て直された長谷川等伯とその一門による障壁画についてまとめていきます。

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