2021年5月30日にNHKで放送された「日曜美術館」の【太子の夢 法隆寺の至宝】の回をまとめました。
こちらの記事はパート3になります。
前回のパート2はこちら☚からご覧ください。
番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
重文《聖徳太子勝鬘経講讃図》
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
読み方は「しょうかんぎょうこうさんず」。
鎌倉時代に描かれたものです。
太子自らが講義を行っている場面が描かれています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
太子のそばにいるのは小野妹子や蘇我馬子といった、太子と共に政治を取り仕切っていた人物たち。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
『勝鬘経』とは仏教経典の一つで、「出家をせずとも仏教に帰依すれば、男女関係なく、あらゆる人が救われる」と説いています。
太子はどのような人でも救われる社会を目指したのです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
2021年4月に行われた100年に一度の大法要。
僧侶たちによって、日本の礎を築いた太子を讃える「太子和讃(たいしわさん)」が唱えられました。
聖徳太子像のイメージ
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
漫画『聖徳太子』の作者の池田理代子さん。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
池田さんがこの漫画を描く際に参考にしたのが、こちらの《五尊像》の左側に描かれた聖徳太子だといいます。
なんだか私たちのイメージする太子とまた違いますね!
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
髪の毛の長い、まるで美少年のような姿をしています。
池田さんはこの太子を見て、”若きプリンス”というイメージが湧いてきたといいます。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
現代の私たちがイメージする聖徳太子像は、過去に紙幣に描かれた像によるもので、じつはこの太子像が根付いたのは明治以降のことでした。
それ以前、江戸より前の時代には《五尊像》に描かれている「少年の太子」の方が一般的だったのです。
国宝《聖徳太子絵伝》
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
国宝《聖徳太子絵伝》。
太子が亡くなっておよそ450年経った平安時代後期に作られました。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
太子の生涯が10面の絵で表わされています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
中には少々信じがたい伝説も。
こちらでは馬に乗った太子が富士山をひとっ飛びする姿が描かれています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
かの有名な「一度に沢山の人の話を聞き分けた」というエピソードもしっかり描かれています。
太子の生涯を伝えるために作られたこの絵の前に僧侶が立ち、実際に説法を行ったと考えられています。
国宝《聖徳太子坐像》
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こちらは展覧会のメインビジュアルにもなっている御像です。
太子が亡くなって500年という節目の年に制作されました。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
太子45歳の摂政像とされ、豪華な冠をつけて威厳に満ちた表情をしています。
僅かに開いた口元は、太子が今まさに経を説いている最中である事を伺わせます。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
X線で御像を調べた所、内部に小さな観音菩薩像が納められている事が分かりました。
観音菩薩の顔の位置は、太子の口の位置とぴったりと重なっています。
太子が観音の化身である事を表しているのです。
こちらの御像は秘仏とされ普段は非公開(今回の展覧会のような寺外公開はじつに27年振り!!)という事もあり、制作時の彩色がよく残っています。
『考養像』
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こちらは『考養像(きょうようぞう)』と呼ばれる像で、病に倒れた父を看病する、16歳の太子の姿です。
手にしているのは柄香炉。一晩中お香を焚きながら、祈りを捧げる姿が表されています。
鎌倉時代になると、このような太子像が全国各地で造られるようになりました。
全国に1000以上、聖徳太子の像や絵があると言われる中、そのおよそ7割がこのような『考養像』だとも言われています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
考養像が全国に広まるきっかけを作った一人が、浄土真宗の開祖である親鸞でした。
親鸞が生きた鎌倉時代は、戦が頻発し、仏教は一部の特権階級のものになっていました。
「仏教の原点に立ち返り、あらゆる人を救いたい」
そう考えた親鸞は浄土真宗を興します。そして、その時により所としたのが「太子の教え」だったのです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こうして新しい仏教とともに、太子信仰もまた、全国に広がっていったのです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こちらは石川県の西教寺(さいきょうじ)に鎌倉時代時代から伝わる考養像で、地域の人から「おたいっさん」として親しまれています。
西教寺の住職の竹津さんは「素朴な願い、(例えば)孫の受験とか、願掛けのようなことでお参りに来られる方も多い。親しまれている御像。」と言います。
また調査を行った石川県立歴史博物館の濱岡伸也氏は次のように話します。
「聖徳太子は神様でも仏様でもない。太子が生身の人間であったという事で、”(庶民にとって)自分たちに近い”という思いがあったのでは。
自分たちと同じ人間だけど、すごい事が出来た人。だったら私たちの願いもかなえてもらえるかもしれない。そういう思いにつなげやすかった」
堂本印象《聖徳太子憲法御制定》
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こちらは日本画家の堂本印象が描いた聖徳太子像。
1970年代まで最高裁判所の大法廷に掛けられていました。
なぜ裁判所に聖徳太子が??
ここで描かれているのは、聖徳太子が憲法十七条発布する、いわば「これからこのルールでやっていきますよ」という場面です。
ここでは”法の理念の最高の姿”として、憲法十七条の精神を掲げたのだと考えられます。
1400年前と聞くと、今から遥か遠い昔の事のように感じられますが、じつはこの現代でも通じる事が沢山あるのです。
いかがでしたでしょうか。
今回の記事はここまでになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
コメント
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