【日曜美術館】第73回正倉院展④【美術番組まとめ】

日曜美術館

2021年11月7日にNHKで放送された「日曜美術館」の【よみがえる 天平の息づかい〜第73 正倉院展〜】の回をまとめました。

今回の記事はパート4になります。

番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪

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《五月一日経》

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

こちらの《五月一日経(ごがつついたちきょう)》はお経の全集で、奈良時代の写経の代表作とも呼ばれるものです。

この名称は天平12年(740年)5月1日に光明皇后の願文の日付があることに由来します。
そこには夫である聖武天皇の治世が幸いなものであるようにとの願いを込めた全集を作ると書かれています。

天平勝宝8歳(756年)まで続けられた写経は、総巻数7000余りに及んでいます。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

今回の第73回正倉院展では、その一つである『般若波羅蜜光讃経(はんにゃはらみつこうさんきょう)』が出陳されています。
こちらは正倉院展始まって以来、初めての公開になります。

光明皇后のいわば”個人的な思い”から始まった写経ですが、それはやがて国家規模のプロジェクトになっていきます。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

天平20(748)年には、東大寺内に写経所が開設されます。
字の上手い役人が様々な部署から集められ、組織として写経を進めていくのです。

今回の正倉院では、そこで働くひとたちの苦労を物語るものも出陳されています。

《白絁腕貫》

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

こちらの《白絁腕貫(しろあしぎぬのうでぬき)》は、写経する人の衣服が汚れないようにする腕カバーのようなものです。

筒状に仕立てた部分に腕を通して、それを繋いだひもを首に掛けて使いました。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

先の部分が白くなっているのは、書いているうちにかすれてしまったからでしょう。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

首の部分に使っていた人の名前が残っています。
持ち主は高市老人(たけちの おゆひと)という人物。
残っている記録から、26年に渡り写経所で勤務していたことが分かっています。

それではなぜ、そんな細かいことまで分かるのでしょう?

『正倉院文書』

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

実は正倉院には、写経所に関わる膨大な記録が残されていました。
正倉院文書(しょうそういんもんじょ)と呼ばれるその書物には、文房具などの在庫管理から、職員の勤怠記録、金銭のやり取りを記録した出納帳など様々な記録が残されています。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

第73回正倉院展に出陳されたのは、出向した役人の勤務記録に関わるものです。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

ここに名前があるのは、船花張善(せんかのちょうぜん)さん。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

記録によると船花張善さんの一年間の出勤日数は119日。
写経した枚数は430枚で、内訳は「涅槃経(ねはんきょう)」と、「瑜伽論抄(ゆがろんしょう)」でした。

膨大な数のお経を写経しなければならないとなった時、やはり重視されたのは”能率”でした。
また「仏の教えを写す」ということで、能率が求められても一語一句おろそかにする事は許されません。
結果的に写経所は、写経という製品を生み出すための一つの工場となっていったのです。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

こちらには腹痛で仕事を休むことを詫びる文章が書かれています。
朝から次第に腹が張り、下痢になってしまいました
長く休んでしまってもどうか責めないで下さい

現代の私たちの暮らしと大差がない、勤務管理も”なんとなく”ではなく厳格に行われていたのが分かります。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

こちらは就職の便宜を期待して、生鰯60を贈ったプレゼントの送り状です。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

しかし、手紙に書き加えられたのは「用不(もちいず)」の文字。
お願いは聞き入れてもらえなかったようです。

正倉院宝物というと、聖武天皇の身の回りの品や愛用していたものをイメージしますが、これら写経所の勤務記録や手紙といった日常の記録にまつわるものも、1300年経つと宝物になるというのはとても面白いです。

まさか残るとは思ってないでしょうね。お腹が痛いっていう報告みたいなことが」(正倉院事務所所長・西川明彦氏)

正倉院には聖武天皇にまつわる品々が献納されて、「残していこう」という意思で残していったものだけではなく、ある種の”行政文書”のようなもので、もしかするとたまたま正倉院に入ったものが、結果として当時の人々の様子を伝える大事な史料になっているのです。

今回の記事はここまでになります

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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