2021年5月2日にNHKで放送された「日曜美術館」の【私は世界でもっとも傲慢な男 ―フランス・写実主義の父 クールベ】の回をまとめました。
番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
イントロダクション:ギュスターヴ・クールベ
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)は19世紀フランスの画家です。
「写実主義」を宣言し、美術史の流れを変えました。
彼はヌードや風景画、狩猟画など、自分が見たものをありのままに描き、後に登場する印象派にも大きな影響を与えます。
しかし彼の革新的な表現は、スキャンダルを生んでいきます。
こちらは《オルナンの埋葬》というクールベの代表作。
描かれているのは葬儀に集まった村人たち。
亡くなったのは一般の村人ですが、さも”英雄の死”であるかのように大々的に描いた事が批判されます。
庶民の表情も「理想的な美とは正反対だ」として酷評されました。
こちらは《画家のアトリエ》という作品。
《オルナンの埋葬》と並ぶクールベの代表作ですが、この作品も「反体制的だ」として非難の嵐にさらされます。
作品の真ん中には、自信に満ち溢れたクールベが筆を取る姿が描かれています。
クールベの有名な言葉で、次のようなものがあります。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
自らを「世界で最も傲慢な男」といったギュスターヴ・クールベ。
クールベは西洋美術史において、とても重要な画家です。
しかし印象派と比べると、日本ではあまり知られていない存在といえます。
たいへんな自信家で、時に傲岸不遜と思われても致し方ないような言動。権威に媚びず、自分の描きたいものを描きたいように描きました。
今回はそんなクールベの作品と画家人生についてまとめていきます。
クールベの半生
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
ジャン=デジレ=ギュスターヴ・クールベは1819年、フランスとスイス国境近く、フランシュ・コンテ地方の小都市オルナンに生まれます。
父親は裕福な農場主で、母親はこの地方の司法官の家柄の出身でした。
また、クールベには3人の妹がいました。
幼い頃から絵を描くのが好きで、デッサンに明け暮れる日々を送っていたといいます。
二十歳になると父親の強い希望により、法律家を目指してパリへ出ます。
しかし幼い頃からの夢を忘れられず、法律家への道を断念。
絵画修行を本格的に開始します。
正式に美術学校には通わず、ルーヴル美術館でドラクロワやレンブラントなど巨匠たちの作品を学びます。
また、親戚の助力を得て、画家の工房に足を運び勉強しました。
この『絶望』と題された自画像は、3年連続でサロンへの落選が続く中で描かれました。
画家がまだ何者でもなかった若き日の姿です。
そして1844年、25歳の時にサロンに入選します。
しかしこれは画家としては非常に遅いデビューでした。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
この頃、クールベは夜になると、知識人の溜まり場となっていたビアホールに通うようになります。
そこで詩人であり評論家のシャルル・ボードレールや、社会主義思想家のピエール・ジョゼフ・プルードンらと熱い議論を交わします。
その交流の中で、「この混沌とした現実そのものを描きたい」という思いがクールベの中に芽生えます。
《オルナンの埋葬》
《オルナンの埋葬》1849年
ギュスターヴ・クールベ
オルセー美術館蔵
そして30歳の時に描かれたのが《オルナンの埋葬》でした。
描かれているのは、故郷オルナンの村で行われた葬儀に集まる、無名の人々です。
クールベは実在する人物のスケッチをベースに、縦3.6メートル・横6メートルの大画面に等身大のサイズで人物を描いています。
クールベはこの作品に以下のような副題をつけています。
「オルナンのある埋葬に関する人物で構成された歴史画」
「歴史画」とは本来、神や英雄を理想化して描くもので、この作品ように一般の人を描いた作品に使われる言葉ではありません。
しかし、クールベは「今を生きる普通の人々こそが歴史画にふさわしい」とこの絵で主張したのです。
クールベのこの絵は伝統を重んじるサロンから、猛烈な批判の嵐にさらされます。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
クールベの言葉です。
「私は誰のことも気にならない。人は私をうぬぼれだと非難する!
実際、私は世界で一番傲慢な人間である」。
ナポレオン三世の即位
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
《オルナンの埋葬》の発表直後の1852年、ナポレオン3世が皇帝に即位。フランス社会に激震が走ります。それまでの市民中心の体制が終わりました。
その翌年の1853年、クールベは《浴女たち》という作品をサロンで発表します。
この絵には理想化されていない、女性の裸体の後ろ姿が描かれていました。
これを見たナポレオン3世は、作品を鞭で打ち付けたと伝えられています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
その2年後、皇帝の威信を示す第一回パリ万国博覧会が開かれます。
この時にクールベが準備したのが、もう一つの代表作《画家のアトリエ》でした。
《画家のアトリエ》
《画家のアトリエ》1854-55年
ギュスターヴ・クールベ
オルセー美術館蔵
中央で絵を描いているのは、クールベ自身です。
クールベによると、画面の右側は「生きている世界」で、画家を支持する人たち等が描かれています。
反対の左側は「死んでいる世界」。
強欲な商人や貧しい人々など、フランス社会の現実を描きました。
この作品は万博への出品を拒否されてしまいます。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
《画家のアトリエ》はその大きさが縦が3.6メートル、横が6メートルというかなりの大画面で、これは当時でも珍しい巨大なサイズでした。
これくらいの大画面で描かれる作品といえば、当時は宗教画や歴史画が主であり、画家自身やその周囲の人間を描いた作品で、この大きさの絵と言うのは考えられない事でした。
現代の私たちはそこに違和感を感じたりはしませんが、当時の人は「なぜこの主題で、こんな大きなサイズで描くんだろうか?」と理解する事ができず、決して簡単に受け入れられ作品ではありませんでした。
クールベが世界初の「個展」を開催
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
万博への出品を拒否されたクールベは大胆な行動に打って出ます。
万博会場のすぐ近くにプレハブ小屋を造り、そこで個展を開いたのです。
40点の作品が展示されたこの展覧会こそ、実は画家が行った、世界で最初の”本格的な個展”だったのです。
入場料は万博会場と同じ1フラン。しかし客足を乏しく、1フランから値下げしますが、それでもダメで、結局興行的には失敗におわりました。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
そしてこの時、個展のカタログの序文に添えられたのが「レアリスム宣言」でした。
これが”写実主義”、”レアリスム”の始まりとなるのです。
クールベの言葉です。
「私は目に見えるものしか描かない。生きた芸術を生み出すことが私の理想なのだ」
今回のパート1はここまでになります。
パート2では、《画家のアトリエ》について詳しくまとめていきます。
こちら☚からご覧頂けます。
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[…] 今回の記事はパート2になります。 前回のパート1はこちら☚からご覧いただけます。 […]