【ぶらぶら美術・博物館】「法隆寺金堂壁画と百済観音」まとめ③

ぶらぶら美術・博物館

2020年4月28日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#346 東京国立博物館 特別展 「法隆寺 金堂壁画と百済観音」】の回をまとめました。
こちらの記事はパート3になります。
前回のパート2はこちら☚からご覧いただけます。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪

パート3では、生涯で12面全てを三度も模写した鈴木空如の作品、そして国宝の《毘沙門天立像》と《吉祥天立像》についてまとめていきます。

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鈴木空如による模写

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらの3枚は全て同じ金堂壁画の第十号壁、『薬師浄土図』を模写したものです。
これらは全て鈴木空如(すずきくうにょ)という名の仏画師が大正時代に描いたものです。

彼は全12面を3セット模写していますので、全部で36枚のこの大きな壁画模写を描いた事になります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

鈴木空如は東京美術学校(東京藝術大学の前身)で日本画を学んでいました。
在学中に明治期の桜井香雲の金堂壁画の模写を見て感銘を受けます。

そこから空如は、誰に頼まれるでもなく”自己資金”と”独力”で模写に取り組みます。

まるで苦行のようですね・・・

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

一番最初の模写は1922年(大正11年)に描かれました。
空如は法隆寺に何十回と通いつめ、色彩や線などをつぶさに観察しています。
この大正11年の模写では、壁画の傷や剥落なども細かく模写しています。

昭和の大修理の際は壁画の素地を点描で表していましたが、空如ぼかす事で素地で表現しています。

空如はどうして三度も模写するまで、金剛壁画に取り組んだのでしょうか?

その理由の一つが、東京美術学校在学時代の恩師で、日本画家の山名貫義(やまなつらよし)の影響があります。
山名貫義は文化財保護行政にも携わっていました。
空如はその恩師から「文化財保護とは」の何たるかを叩きこまれていたと考えられます。

空如は仏画師としてどのように文化財保護に携われるだろうかと考えた結果、模写を多く残す事で人目に触れる機会が増え、人々の心の中に変化が生まれ、より一層文化財保護の精神が芽生えると考えたのです。

そんな空如はほとんど無名の画家で、死後忘れ去られていました。
しかし1949年の金堂火災が起きた後の壁画復元事業において、空如が残した壁画模写が注目され、重要な参考資料として評価されるようになりました。

国宝《毘沙門天立像》

続いてはそんな壁画の模写に囲まれて展示されていました、法隆寺の国宝の仏像群を見てまいりましょう。


国宝《毘沙門天立像》1078年(承歴2年)
平安時代
奈良・法隆寺蔵

画像出展元:ホームページ「東京国立博物館」より

こちらは平安時代に作られた『毘沙門天(びしゃもんてん)』の御像になります。
毘沙門天』は持国天(じこくてん)増長天(ぞうちょうてん)広目天(こうもくてん)と共に四天王の一尊に数えられる武神です。
毘沙門天』の特徴は甲冑まとい、右手に宝塔(ほうとう)を持っている姿です。

法隆寺の金堂では、本尊である《釈迦三尊像》の向かって右側に安置されています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

平安時代、今から1000年近く昔の御像にもかかわらず装飾が綺麗に残っています。
金の模様は一見すると截金(きりかね)細かい金箔で文様を作ること)ように見えますが、金箔を貼った上に金の線を残すように塗り込んでいるものになります。
ですので、まるで金で描いた線のようになっているのです。

平安時代になると截金の技法は一般的になりますが、あえて截金を使わないのが、奈良地方に見られる傾向です。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

お顔は平安時代らしく、ふっくらとした顔つきになっていますが、目はつりあがって武神らしい強い顔つきになっています。

国宝《吉祥天立像》


国宝《吉祥天立像》1078年(承歴2年)
平安時代
奈良・法隆寺蔵

画像出展元:ホームページ「東京国立博物館」より

読み方は「きっしょうてん」もしくは「きちじょうてん」です。

吉祥天毘沙門天の奥さんとされている仏教の守護神です。
こちらの御像は《釈迦三尊像》の向かって左側に安置されています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらの御像も《毘沙門天立像》と同様に、作られた当初の鮮やかな色彩が残っています。
作られた年は《毘沙門天立像》と同じ年になります。

とても1000年以上前の御像には見えませんね!

これだけ鮮やかな色彩が残された理由の一つとしては、法隆寺の金堂が長らく非公開であった事に関係すると思われます。
一番最初に金堂が公開されたのが江戸時代中頃と言われており、それが結果的に保存状態の良さに繋がっていると考えられます。

今回のパート3はここまでです。
次のパート4でぶら美の「法隆寺 金堂壁画と百済観音」の特集はラストです!

最後は展覧会の目玉、国宝の《百済観音》について詳しく見ていきます。
こちら☚からご覧いただけます。

コメント

  1. […] 法隆寺金堂壁画の模写作業をする画家は皆、何かにとりつかれたかのように一心に壁画を写しました。 続くパート3では、その中でも最も壁画に魅了された鈴木空如(すずきくうにょ)の模写作品を見ていきます。 こちら☚からご覧いただけますので、是非ご覧ください。 […]

  2. […] 2020年4月28日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#346 東京国立博物館 特別展 「法隆寺 金堂壁画と百済観音」】の回をまとめました。 こちらの記事はパート4になります。 前回のパート3はこちら☚からご覧いただけます。 […]

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