2022年5月24日にテレビ東京で放送された「開運!なんでも鑑定団」の【本阿弥光悦の書状】についてまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
*画像出展元:テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」より
比類なき総合芸術家 本阿弥光悦
長く続いた応仁の乱が終わると…
京の町では”町衆(まちしゅう)”と呼ばれる裕福な商工業者が台頭し、経済だけでなく文化や芸能においても新たな活動を行うようになった。
本阿弥光悦は16世紀の末、この町衆の中から現れた総合芸術家である。
レオナルド・ダ・ヴィンチのごとく様々な分野で類まれな才能を発揮した。
もともと本阿弥家は刀剣の研磨・鑑定を生業としており、おそらく光悦は幼いころから家業を通じ、卓越した審美眼を養ったのであろう。
例えば漆芸。
古典に材を取りつつ、銀や鉛などを大胆に用いた。
この独特な様式は光悦蒔絵として絶賛された。
国宝『舟橋蒔絵硯箱』は蓋の甲を高く盛り上げ、
黒い鉛板で舟橋を表現するなど、斬新な趣向が盛り込まれ、光悦蒔絵の頂点とされる。
陶芸においては特に楽焼の茶碗を好んで作った。
いわゆる手すさびで、興が赴くまま自ら手づくねしている。
姿形や釉薬の用い方は本職の陶工と比べると、奔放で極めて独創的といえよう。
樂家(らくけ)初代長次郎の茶碗とともに茶の湯の至宝とうたわれている。
そして最も得意としたのが「書」である。
筆遣いは先人の書に学びながらも太い線と細い線に極端な差をつけ、ひと際装飾性あふれた、いわゆる光悦流である。
その書風は戦国時代を経て停滞していた書の世界に新風を吹き込んだ。
同時期の近衛信尹(このえのぶただ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)とともに「寛永の三筆」と謳われた。
光悦の書を更に引き立てたのが、俵屋宗達の下絵を用いた和歌巻である。
一介の町絵師にすぎなかった宗達の才能をいち早く見出した光悦は、今でいうプロデューサー的感覚も持ち合わせていた。
宗達のダイナミックな下絵に対し、光悦は字粒の大小・歌の行間の広狭・句節ごとの書き出しの高低・墨の濃淡など巧みに変化させ、画と書を見事に調和させている。
この光悦と宗達のコラボレーションが生み出した豊かな装飾性・デザイン性はのちの尾形光琳に受け継がれ、「琳派」へと発展していった。
本阿弥光悦の書状
改めて依頼品を見てみよう。本阿弥光悦の書状である。
以下のような内容が書かれている。
「一筆申し上げます。今度の昼は道於老(どうおうろう)と一緒に参上します。相客とも同道します。お子様たちも成人なされ、おめでとうございます」
宛名の菅織部(すがおりべ)とは江戸時代初期の譜代大名・菅沼定芳(すがぬまさだよし)のことである。
簡単な内容の書状だが光悦は生前から人気があり、本物なら高額が期待できるが…
果たして鑑定やいかに?
本物 150万円!
いった~150万!本物!
「間違いございません。新発見の手紙でございますね」
「書風全体は晩年の字。光悦はですね、55歳の頃に脳血管障害を患いまして右半身が不自由になるんです」
「『二月十日』と書いてありますけども、『十』という字の縦の線がスッと抜けたあとに、ポンと何か点が打ってある。これは筆がうっかり紙についてしまった」
「お茶会のですね、挨拶状ということになります。菅沼定芳という人はですね、比較的遅い頃の交友関係のなかの人物」
「お子さんが成長しておめでとうございます、というようなことを言っている。非常に親しい間柄だったんじゃないかと」
「人間関係のよく出た良い手紙ですので、大切になさっていただきたいと思います」
今回の記事はここまでになります。