【美術番組まとめ】法隆寺1400年の祈り【パート5】

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2022年1月20日にNHK BSプレミアムにて放送された【法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」】の回をまとめました。

今回の記事はパート5になります。
前回のパート4はこちら☚からご覧ください。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧下さい(^^♪

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聖徳太子1400年御聖諱

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

2021年は聖徳太子が亡くなって1400年という大きな節目の年でした。
遠忌(おんき)にあたるこの年、大法要である御聖諱(ごしょうき)が執り行われました。
法隆寺とゆかりの深い寺院の僧侶が参列し、日本仏教の基礎を築いた太子の遺徳を讃えます。

そのルーツは法隆寺東院の中心である夢殿を立てた奈良時代の僧侶・行信にあるといわれています。

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

時代が進むにつれて規模が大きくなっていき、今では御輿(みこし)を担いだ行列が僧侶らと共に夢殿から西院伽藍までを練り歩き、大講堂を目指します。

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

大講堂の本尊である『薬師如来』。

その隣には、平安時代に作られた『聖徳太子坐像(伝七歳像)』が安置されます。
こちらの御像は年代の分かる太子像として最古のものです。

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

薬師如来、太子七歳の像と並んで置かれるのがこちらの『南無仏舎利(なむぶっしゃり)』。
二歳の太子が「南無仏」と唱えた際に、その手からこぼれ落ちたとされる仏舎利(お釈迦様の遺骨)が納められています。

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

御聖諱では大陸から伝わった舞楽が奉納されます。
このような異国情緒あふれる仮面劇は、太子が存命の頃から盛んに演じられてきました。

鎌倉時代における太子信仰

鎌倉時代になると、ある有名な高僧の影響もあり太子信仰はさらに広がっていきます

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

こちらはその高僧が彫ったと伝わる太子像です。
素朴な味わいの中にも深い敬愛の情が見て取れます。

孝養(きょうよう)像とは、太子16歳の時の姿で父・用明天皇の病気平癒を願う姿が表された像のことです。

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

背後の足元には作者の名が刻まれています。
ここにある「範宴(はんねん)」とは、浄土真宗の開祖である親鸞の若い頃の名前です。

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

親鸞が若い頃、100日間に渡って六角堂にこもり修業をしていたところ、枕元に太子が現れ、お告げを残していったといいます。

それ以降、親鸞は深く太子を信仰するようになり、太子を讃える歌も数多く残しています。

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

この歌では、「救世観音は聖徳太子としてこの世に姿を現され、まるで父や母が我が子を思うように見捨てることなくいつも付き添ってくださいます」と詠んでいます。

親鸞の浄土真宗以外にも、様々な宗派や身分の垣根を越えて太子信仰が浸透していきます。

存続の危機を乗り越えて

こうして法隆寺は太子信仰の拠点として、寺に伝わる宝物を大切に保管していきました。

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

しかし明治時代に入り法隆寺は最大の危機を迎えます。
それが『廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)』です。

明治政府により発せられた神仏分離令は、やがて仏教排斥の動きをもたらし、寺や仏像が破壊される事件が頻発します。
法隆寺も例外ではありませんでした。

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

東京国立博物館の一角にある法隆寺宝物館
ここにその最大の危機を法隆寺が無事に乗り越えた証が残されています。

ではどうして、法隆寺の宝物が東京の博物館に納められているのでしょうか?

廃仏毀釈で苦しい経済状況になった法隆寺は、皇室におよそ300点の宝物を納めることで下賜金を得、それを使って寺の維持や修復を行うことができたのです。

やがて戦後になり、それら300点の宝物は皇室から博物館の所蔵となったのです。

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

こちらは『四十八体仏』と呼ばれる金銅製の小さな仏像たちです。

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

こちらの御像は朝鮮半島から仏教が伝来して間もないころにもたらされた貴重な御像です。

日本書紀の中にある初めて仏像を見た欽明天皇(きんめいてんのう)の言葉、「仏の相貌端厳(かおきらぎら)し」。
この像の美しさはその言葉を彷彿とさせます。

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

こちらのお像は法隆寺金堂の釈迦三尊と同じ趣を感じられます。

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

法隆寺の秘仏『救世観音』を小さくしたような御像もあります。

これらの御像は一括して皇室に献納されたことで、散逸を免れることができたのです。

画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より

法隆寺1400年の歴史は決して安泰なものではなく、その間に幾度となく存亡の危機を迎えては、乗り越えてきたのです。

そしてそこには人々の聖徳太子に寄せる特別な思いが常にあったのです。

今回の記事はここまでになります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

コメント

  1. […] 今回の記事はここまでになります。 パート5へと続きます。 【美術番組まとめ】法隆寺1400年の祈り【パート5】 […]

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