2022年1月20日にNHK BSプレミアムにて放送された【法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」】の回をまとめました。
今回の記事はパート4になります。
前回のパート3はこちら☚からご覧ください。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
『夢殿』と僧侶 行信
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
光明皇后(701-760)が生きた時代と同じ頃、法隆寺に新たな聖地が生まれました。
それが法隆寺東院の中心をなす『夢殿(ゆめどの)』です。
太子がかつて暮らしていた斑鳩宮(いかるがのみや)の跡地に建てられました。
「夢殿」という名称は、太子が仏殿で瞑想していた際に夢の中で教示を受けたという伝承に由来しています。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
その夢殿を立てたのが、行信(ぎょうしん、生没年不詳)という名の僧侶でした。
行信の没後間もなく作られたと考えられているこちらお像には、つりあがった目やとがった鼻といった彼の生前の顔立ちを克明に今に伝えています。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
斑鳩宮跡が無残に荒れ果てているのを見た行信は、太子の供養のための『夢殿』の建立を願い出たといいます。
『救世観音』
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
その夢殿の本尊がこちらの『救世観音』です。
クスノキの一木造りで造られたこちらのお像は、聖徳太子その人を模したものと考えられています。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
飛鳥時代のお像ですが、明治の頃まで長らく布に巻かれた状態で封印されていたため、表面の金箔が同時代の他のお像に比べてたいへんよく残っています。
また、『救世観音』は秘仏とされており、これまで寺の外で公開されたことは一度もなく、法隆寺での公開も毎年春と秋のそれぞれ約一ヶ月間のみとなっています。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
手には菩薩の持ち物である”宝珠(ほうじゅ)”が掲げられています。
燃えるような火炎模様が施されており、その炎は世界を明るく照らし出すとされ、人々の病や苦しみを取り除く、「衆生救済のシンボル」とされてきました。
法隆寺の国宝
ここからは法隆寺の個性際立つ3つの国宝をご紹介します。
『九面観音』
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
こちらの『九面観音(くめんかんのん)』は奈良時代に中国・唐からもたらされたといわれています。
その名の通り、正面のお顔と頭上の8つのお顔、合わせて9面のお顔があります。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
およそ40センチという小ぶりな大きさにもかかわらず、精緻な装飾や翻る衣が見事に表現されています。
材質は硬い白檀(びゃくだん)の一木造りでつくられています。
白檀は香りが良く、木材としても緻密なキメを持ち、また防虫効果もあることから仏教の本場であるインドや中国で重宝されてきました。
灌頂幡
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
こちらは『灌頂幡(かんじょうばん)』と呼ばれるもので、法要などの際に掲げられた荘厳具です。
現在は東京国立博物館の法隆寺宝物館に納められています
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
金銅製の薄い板に如来や雲、唐草文様など見事な透かし彫りが表されています。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
こちらでは音楽を奏でながら、天女が地上に降りてくる様子が表されています。
飛鳥時代にすでに高度な金工技術があった事が伺えます。
『竜首水瓶』
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
どこか異国の趣が感じられるこちらの《竜首水瓶(りゅうしゅすいびょう)》。
この形状の水差しはササン朝ペルシャがその源流と言われています。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
その名の通り、水瓶の上には龍の顔が。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
大きく膨らんだ胴の部分には天馬(てんま)と呼ばれる、翼を広げた馬が。
毛彫りという細い線刻で、金を浮き立たせるように表現されています。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
中国の竜とペルシャの天馬が描かれている事から、長い間異国で作られたものと思われていましたが、近年の調査では日本でつくられたものだと考えられています。
聖徳太子の神格化
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
平安時代になると、様々な伝説・伝承と相まって聖徳太子の神格化が進みます。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
それを導いたのが「絵伝」と呼ばれるものです。
こちらの『聖徳太子絵伝』では、太子が生まれてから亡くなるまでの様々な出来事を絵で表す事で、見た人に視覚的なイメージを与えました。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
その始まりは太子の母が身籠ったところから。
右上のシーンでは金色の僧の姿をした観音菩薩が、太子を受胎したことを告げています。
西洋の『受胎告知』とよく似ていますね!
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
やがて厩(うまや、馬を飼う小屋の意)の前で産み落とされたことから、厩戸皇子(うまやとのみこ)と名付けられました。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
こちらは太子2歳の姿。
釈迦の命日に東の空を向いて「南無仏」と唱えたといいます。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
その時の姿を表したのがこちらの『聖徳太子二歳像』。
このように絵伝の話を元に、彫刻も作られるようになります。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
こちらは少し成長した7歳の姿の太子像。
この頃の太子は、朝鮮半島の百済から届いた経典を数百巻も読み、その内容を人々に教え伝えたといいます。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
16歳の頃の姿を表したのが『聖徳太子孝養(キョウヨウ)像』。
孝養像はこちらのお像だけでなく、全国にあり数多く作られました。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
16歳の太子が手に香炉を持ち、父・用明天皇の病気平癒を願う姿です。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
こちらのお像は平安時代、太子の500年遠忌(おんき)にあたりつくられたもので、推古天皇の摂政として活躍していた頃の姿を表しています。
冠を頂き、笏をとる太子は威厳に満ちており、政治に関わる貴族たちから愛されたと伝わります。
今回の記事はここまでになります。
パート5へと続きます。
【美術番組まとめ】法隆寺1400年の祈り【パート5】
コメント
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