2021年1月26日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#367 東京ステーションギャラリー「河鍋暁斎の底力」〜画鬼・暁斎の知られざる直筆!妥協を知らない天才の力〜】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
イントロダクション:「河鍋暁斎の底力」展
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
河鍋暁斎(かわなべきょうさい)は幕末から明治にかけて活躍した絵師です。
「描けぬものはなし」と呼ばれた天才で、人は彼のことを”画の鬼”、”画鬼(がき)”と呼びました。
当時来日した多くの外国人からも「日本一の絵師」として賞賛されるほどでした。
あの葛飾北斎の弟子だとも勘違いされていました。
「ホクサイ」と「キョウサイ」で「斎」の字が被っていますからね。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
今回の展覧会では新発見作品や初公開作品が公開されています。
ところでタイトルに「河鍋暁斎の底力」とありますが、これはいったいどういう意味なのでしょう。
上の展覧会のチラシには「純度ほぼ100%の暁斎展」と書かれています。
暁斎の作品で、本画(ほんが)と呼ばれる完成品には、じつは弟子や職人といった暁斎以外の人物の手が入っているのです。
今回の展覧会はそういった完成品ではなく、下絵や画稿類といった暁斎の手しか入っていないものが展示されているのです。
だから、「純度ほぼ100%」なのですね!
完成品ではない”下絵”だからこそ、暁斎の底力がより分かるのです。
《象 写生》
《象 写生》
1863(文久3)年4月2日
河鍋暁斎
河鍋暁斎記念美術館蔵
こちらは暁斎32歳の時の作品です。
両国広小路の見世物小屋にいたゾウを、実際に見て描いています。
ちなみにメスの3歳のインド象だとか。
当時このゾウを見るとご利益があると言われ、たいへんな人気があったと言います。
山田五郎さん曰く「今でいうパンダを見るような感じ」とのこと。
暁斎はこのゾウのように珍しいものを見ると、すぐさま写生したといいます。
その始まりは幼少期まで遡り、数え3歳でカエルを描き、数え9歳の時には河原で生首を拾って帰りそれを描いたと言われています。
それは怖すぎますね!
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
この《象 写生》でも暁斎の観察眼の凄さが現れています。
遠くから見たゾウの瞳の色をメモして、後で錦絵にした時に役立てようとした形跡が見られます。
かなりサラッと描かれていますが、それでも暁斎の上手さが分かる一枚です。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
署名には「暁斎」ではなく、「狂斎」と書かれています。
(読み方は同じ「きょうさい」です)
この頃は「狂斎」と名乗っており、のちに「暁斎」に改名するのです。
暁斎のキャリア
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
”幼少期、泣いている時に絵を見せたら泣き止んだ”というエピソードのある暁斎。
その画業のスタートはなんと数え7歳で、浮世絵師の歌川国芳に入門します。
そこで写生などの基礎を学びました。
また国芳に非常に可愛がられ、彼は少年暁斎を吉原にまで連れていったといいます。
最終的には暁斎の親が「ここは息子に悪い影響を与えるのでは?」と考え、国芳塾を2年で辞めさせました。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
国芳の画塾を辞めたのち、次は10歳で駿河台狩野派に入門します。
そこで「画鬼」と呼ばれるようになります。
しかし師匠が病気になってしまったのを機に、駿河台狩野派の当主・狩野洞白に入門します。
狩野派の当主から学ぶというのは異例のことで、それだけ暁斎がすごい才能を持っていたという事なのです。
その後、これまた19歳という異例の早さで狩野派の修行を終えます。
今日の河鍋暁斎のイメージだと、「常識にはとらわれない、奇抜でパンチのある絵」のようなイメージがありますが、じつはアカデミックな絵画教育をしっかりと受けた人物なのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
さらにそれだけでは飽き足らず、様々な流派を学んでいきます。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
28歳の頃に狂画(=浮世絵版画)を描き始め、「狂斎」と名乗るようになります。
《能狂言面之地取図巻》
《能狂言面之地取図巻》部分
1853-85年
河鍋暁斎
河鍋暁斎記念美術館蔵
こちらは長さ16メートルにも渡る巻物です。
暁斎が20歳の前半から30年間に描いた、能や狂言にまつわる絵やメモ書きを集めて巻物にしたものです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
こちらでは犬の顔や口の部分を丹念に描いた形跡が見られます。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
暁斎の描くものは上手く、また非常に正確なので、後の時代の研究者にも役立っているといいます。
《日光地取絵巻》
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
こちらは暁斎が日光を旅行した時の様子を描いたものです。
一巻あたりの長さは約10メートルで、それが×2なのでトータル20メートルになります。
(冒頭の部分に「三巻の内」と書かれている事から、もう一巻あった可能性があります)
この巻物が描かれたのは晩年ですが、暁斎は若い頃、狩野派時代にも補修の仕事のために日光東照宮を訪れています。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
暁斎はこの日光への旅行に、弟子のジョサイア・コンドルと一緒に行っています。
ジョサイア・コンドル(1852-1920)は、今の『三菱一号館美術館』の元となった『三菱一号館』などを設計したイギリス人建築家です。
またコンドルは東京駅を設計した辰野金吾らを指導し、”日本近代建築の父”と呼ばれました。
日光へは9日間の旅程で、当時暁斎が55歳でコンドルが32歳でした。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
暁斎は59歳で亡くなっているので、そういった意味では晩年の作になります。
残っている作品が多いので長生きしたイメージがありますが、じつは若くして亡くなっているのです。
末期の病床で暁斎の手を取り、彼の最期を看取ったのもコンドルでした。
今回の記事はここまでです。
パート2では暁斎の『席画』作品についてまとめていきます。
こちら☚からご覧頂けます。
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[…] 今回の記事はパート2になります。 前回のパート1はこちら☚からご覧頂けます。 […]