【美術番組まとめ】聖徳太子と法隆寺②【ぶらぶら美術・博物館】

ぶらぶら美術・博物館

2021年8月17日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#383 東京国立博物館 特別展「聖徳太子と法隆寺」〜これを逃したら次は100年後?!滅多に見られない寺宝から読み解く、太子伝説の真実〜】の回をまとめました。

今回の記事はパート2になります。
前回のパート1はこちら☜からご覧ください。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪

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国宝《聖徳太子および侍者像》

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

聖徳太子そのものを信仰する”太子信仰”は平安時代から盛んになっていきます。
そんな太子信仰の中でこちらの御像がつくられました

法隆寺の聖霊院(しょうりょういん)のご本尊であり、また秘仏となっている《聖徳太子および侍者像》。
今回寺外で公開されるのはじつに27年ぶりです。

聖徳太子の親族と先生が表されています。
左から順に
太子の長男である山背大兄王(やましろのおおえのおう)
その隣が異母兄弟の殖栗王(えぐりおう)
中央に聖徳太子像
聖徳太子の異母兄弟の卒末呂王(そまろおう)
最後一番右が聖徳太子の仏教の師で、高句麗(今の北朝鮮)から来日した恵慈法師(えじほうし)

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

法隆寺で行われる聖霊会(しょうりょうえ)と呼ばれる法要の際に公開されますが、その時には御像の前にうず高く供物が置かれます。
お堂の外から参拝しても頭のてっぺん、冠のさきくらいしか見ることができません。

ですので今回の展覧会でじっくり見られるのは非常に貴重な機会という事になります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらの御像群は今からちょうど900年前、1121年聖徳太子500年遠忌に開眼供養されました。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

太子は威厳に満ちた表情で、眼光も鋭いです。

黒目の部分にはガラスの板がはめられており、さらに造像当初はまつ毛が植毛(いまでいうエクステ)がされていました。

リアルな聖徳太子像にしよう」という強い思いが感じられます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

聖徳太子は観音菩薩の化身であると同時に、毘沙門天信仰とも関わりが強く、頭上には小さな毘沙門天像が配されています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

少し口を開いている様子は、まるで見ている人に語りかけているかのようです。
これは聖徳太子が広めた三経をお述べになっている様子を表しています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

じつは内部に興味深い仕掛けがあります。
昭和に行われた調査の際にX線撮影が行われ、御像の一番下の部分に経巻が収められているのが分かりました。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

さらにその上に飛鳥時代につくられた観音菩薩が収められています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

その観音様のお顔の部分がちょうど太子像の口元にくるように設置されていました。
これにより”観音様の生まれ変わりとしての太子”、観音菩薩が聖徳太子の肉体を通して仏法を広められているというのを表現しています。

《聖徳太子立像(二歳像)》《南無仏舎利》

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

次の作品は法隆寺の舎利殿を再現した空間に展示されています。
”舎利殿”という名前の通り、舎利(お釈迦様の遺骨)が重要という事になります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらが東院・舎利殿のご本尊といわれる《南無仏舎利》と《聖徳太子立像(二歳像)》です。
二歳となっていますが、昔は数え年ですので、今でいう一歳の御姿になります。

並べて展示してあることにはちゃんと意味があります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

次のようなエピソードがあります。
太子は生まれた時に左手を握ったまま生まれてきて、そして言葉も発しなかったといいます(ただしこれは後の伝承とのこと)。

2歳で迎えた2月15日、この日はお釈迦様が涅槃に入った大事な日ですが、その日に聖徳太子は東の空に向かって初めて手を開いて「南無仏」と唱えたといいます。
これが太子の第一声だったといわれています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

そしてその時に、太子の手の平からお釈迦様の仏舎利が落ちたのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

その手からこぼれ落ちた仏舎利が、この水晶の塔の中に納められています。
南無仏の舎利”と呼ばれ、お釈迦様の左目の骨だといいます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

じつはこの「左目の骨」というのが重要で、お釈迦様が亡くなられた際に、各国の王様がその骨を8つに分けました。
その時に王様の中でも一番地位の高かったコーサラ国の王が左眼の骨を頂戴します。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

聖徳太子が唱えた三つのお経(三経)の中の一つに勝鬘経(しょうまんぎょう)というのがありますが、これは女性のためのお経です。

この”勝鬘”というのは、コーサラ国王の娘である勝鬘夫人(しょうまんぶにん)と関係があります。

国王は分けられた左眼の骨を勝鬘夫人に渡したのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

じつは聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりでありながらも、現世では勝鬘夫人の生まれ変わりでもあるのです。
ですので左眼の骨を持って生まれてきた、という伝承があるのです。

太子信仰の中心に位置する、たいへん重要なものになります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

法隆寺では毎年新年の三が日に舎利講(しゃりこう)と呼ばれる、仏舎利を礼賛する儀式があります。
その時には七重の袋の中から仏舎利を出して礼拝しますが、その時間は5分あるかないかという短い時間です。

運よくその時に居合わせた人はお堂の外陣から、遠目に見る事ができます。
しかし通常は近寄ってみるというのは全くできないので、今回の展覧会は非常に貴重な機会といえます。

”1400年のご遠忌”ということで法隆寺の特別の計らいで実現したのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

聖徳太子はその存命中から、伝説と史実が入り混じっている存在でした。
たとえ史実でないとしても、日本人の精神の中の真実であり、「聖徳太子ってこういう人だよね」という古来より脈々と崇敬されてきた思いの結晶といえます。

『御足印』

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらは東院の舎利殿に伝わる、聖徳太子ゆかりの「七種の宝物」。
東院の中でも最も重視されてきた、信仰上の遺物です。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらは聖徳太子の足跡とされる『御足印(ごそくいん)』です。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

左側に土踏まずの部分を確認できます。

主任研究員の三田覚之氏によると、こちらはあくまで”信仰上の遺物”という事で、実際に聖徳太子本人が踏んだものではないだろう、と言います。

江戸時代に法隆寺について書かれた『斑鳩古事便覧(いかるがこじびんらん)』によると、この『御足印』の足のサイズは、21.8センチだといいます。

結構小さいですね~

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

この『御足印』には太子の願いが込められているといいます。
それは「未来の衆生と縁を結ぶ」というものです。

つまり現代の私たちがこちらを拝むことで、聖徳太子と縁が結ばれるのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

御足印』は、お釈迦様の”仏足(ぶっそく)”になぞらえたものだと考えられます。
御足印』を含めた聖徳太子の七種の宝物は、太子の存在を肌身で感じられるのがその特徴で、信仰上、長きにわたって重要視されてきたのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらは太子が自ら書いたとされる『梵網経(ぼんもうきょう)』で、太子の手の皮がつけられているといいます。

今回の記事はここまでになります。
パート3に続きます。
【美術番組まとめ】聖徳太子と法隆寺③【ぶらぶら美術・博物館】

コメント

  1. […] 今回の記事はここまでになります。 パート2へと続きます。 【美術番組まとめ】聖徳太子と法隆寺②【ぶらぶら美術・博物館】 […]

  2. […] 今回の記事はパート3になります。 前回のパート2はこちら☚からご覧ください。 […]

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