【美術番組まとめ】聖徳太子と法隆寺①【ぶらぶら美術・博物館】

ぶらぶら美術・博物館

2021年8月17日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#383 東京国立博物館 特別展「聖徳太子と法隆寺」〜これを逃したら次は100年後?!滅多に見られない寺宝から読み解く、太子伝説の真実〜】の回をまとめました。

今回の記事では東京国立博物館・平成館で開催の『聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」』についてまとめていきます。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪

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聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

東京国立博物館・平成館で開催の特別展『聖徳太子と法隆寺』。
令和3年(2021)は聖徳太子が亡くなって1400年遠忌(おんき)という節目の年で、法隆寺から”至宝中の至宝”が集まっています。

その中には国宝23件重要文化財82件が含まれていますが、ただの国宝・重文ではない、普段私たちが見る事ができない貴重なものが数多く展示されています

この展覧会を見逃したら次に見られるのは100年後?とまでいわれる、秘仏や国宝の数々をまとめていきます

重文《如意輪観音菩薩半跏像》

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらの御像は法隆寺で聖徳太子の御霊を祀っている、聖霊院(しょうりょういん)に安置されている秘仏で、重要文化財に指定されています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

この御像は大阪の四天王寺の本尊を平安時代に模刻したものになります。
ですがもととなった四天王寺の本尊は現存していないので、こちらの《如意輪観音菩薩半跏像》がその姿を今に伝える作例になっています。

四天王寺は聖徳太子によって、法隆寺よりも先に建立されました

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらの御像は展覧会の会場入ってすぐ、一番最初に目にする場所にありますが、それにはちゃんと理由があります。

じつはこの御像は、”聖徳太子の本当の姿”として信仰されてきたのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

今私たちがイメージする聖徳太子像はこちらの御姿でしょう。

今回こちらの有名な聖徳太子像(江戸時代に描かれた模本)が展示されています。
オリジナルは法隆寺に伝わり、1878年「法隆寺献納宝物」の1つとして皇室に献納。現在は宮内庁御物となっています。

教科書にも載っている有名な肖像ですね!

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

じつはこの肖像は、”政治家としての太子像”を描いたものなのです。
そもそもこの肖像が一般に広がったのも明治に入ってからの事です。

今日私たちが知る「憲法十七条制定」や「遣隋使派遣」を行った文化人としての側面は、近代になって固められたイメージであり、明治以前の聖徳太子は仏様の化身や超人的な存在として広く知られていたのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

聖徳太子には様々な顔があり、そのうちの一つが”観音様の生まれ変わり”としての太子なのです。
それ以外にも”政治家としての太子”、”僧侶としての太子”といったなど様々な太子像があります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

聖徳太子は古くからこのような姿として受け入れられ、人々の信仰を集めてきました。
やがて「太子信仰」として日本全国に広まっていきます。

現在、聖徳太子のお寺=法隆寺のイメージが強いですが、これは文化財という点においての事で、「太子信仰」を中心に考えた時、それは四天王寺になるのです。
ですので四天王寺のご本尊が最も重要なものとされ、この《如意輪観音菩薩半跏像》のような模刻がつくられたのです。

『牙笏』

続いては聖徳太子のご遺品を見ていきます。

法隆寺には、「法隆寺資財帳」という奈良時代に書かれた財産目録があります。
そこに太子の遺品としての記述があるものや、後の伝承の中で太子の遺品とされてきたもの等があります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらは『牙笏(げしゃく)』と呼ばれる、官人が公的な行事などの際に手にする薄い板です。

素材は今の時点で調査は行われていませんが、正倉院に非常によく似た宝物があり、それがマッコウクジラの骨で作られている事から、この『牙笏』も同じ素材の可能性があるといいます。

『夾紵棺断片』

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらは大阪の安福寺(あんぷくじ)というお寺が所蔵する『夾紵棺(きょうちょかん)断片』です。

聖徳太子の棺、その断片だといわれています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

太子のお墓は大阪の叡福寺(えいふくじ)というお寺に伝わっていますが、現在は宮内庁の管理となっているため、立ち入ることができません。

しかし明治の初めに封鎖が行われる前に内部調査が行われており、「布と漆を塗り重ねた棺の残骸が石でできた棺の台の上に散らばっている様子」という記録が残されています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

今回展示されている『夾紵棺断片』は棺の側面、長方形の短辺部分だと考えられています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

一見すると木の板のように見えますが、じつは絹と漆を45層張り重ねた特殊な構造をしています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

近くで寄って見ると、ミルフィーユのように何層も重なっているのが分かります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

通常『夾紵棺』には、紵麻(からむし)という植物素材が使われます。
しかしこの安福寺に伝わる『夾紵棺断片』は絹が用いられているという点で、非常に特殊、かつ高貴な人に使われたものなのが分かります。
天皇のものでも素材は麻で、絹でつくられたものはこの安福寺所蔵のものしかありません

明治に行われた叡福寺の調査の際には、棺を置く台の幅が測られていますが、この『夾紵棺断片』と横幅が一致しています。
その点からも太子の棺である可能性が高いといわれているのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

1958年に考古学者の猪熊兼勝(いのくまかねかつ)氏が周辺の古墳調査のために安福寺に寄宿しました。
その時に猪熊この『夾紵棺断片』が安福寺床の間の花瓶の台として使われていたのを見つけたのです。

猪熊は古墳の専門家という事もあり、一目見て『夾紵棺』だと分かったのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

安福寺に伝わった経緯は分かっていませんが、江戸時代に珂憶(かおく)和尚という徳の高いお坊さんがいました。
聖徳太子を篤く信仰しており、叡福寺の太子のお墓に仏舎利を奉納し、そのお礼の返書なども残されています。
この事から叡福寺とのつながりの中でもたらされたのでは?と考えられています。

太子の墓のある叡福寺との繋がり、太子の棺の台との大きさの一致、絹を使った特別なものという点から考えて、これは本物なのでは…と推測できるのです。

今回の記事はここまでになります。
パート2へと続きます。
【美術番組まとめ】聖徳太子と法隆寺②【ぶらぶら美術・博物館】

コメント

  1. […] 今回の記事はここまでです。 次の記事では東京国立博物館・平成館で開催の『聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」』についてまとめていきます。 【美術番組まとめ】聖徳太子と法隆寺①【ぶらぶら美術・博物館】 […]

  2. […] 今回の記事はパート2になります。 前回のパート1はこちら☜からご覧ください。 […]

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