2020年7月14日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#352 ぶらぶらプロデュース!夢の特別展④~世界の美術館を旅しよう!山田五郎「もう絶対、日本に来ない名画」展~】の回をまとめました。
今回の記事はパート4になります。
前回のパート3はこちら☜からご覧いただけます。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
フランドル派
14世紀にイタリアで起こったルネサンスですが、同時代にイタリアと同じくらい絵画が栄えた地域がありました。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
その一つがネーデルラントと呼ばれる、今のオランダとベルギーのある地域です。
フランドル派の画家たちはイタリアよりも先に油絵の技法を使っていました。
中でもファン・エイク兄弟(兄フーベルト、弟ヤン)はその技法を確立したと言われています。
《ヘントの祭壇画》ファン・エイク兄弟
《ヘントの祭壇画》1432年
ファン・エイク兄弟
そのファン・エイク兄弟の代表作が《ヘントの祭壇画》です。
1420年頃に兄弟で製作を始めますが、兄フーベルトが1426年に亡くなってしまい、弟のヤンが完成させました。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
この作品はベルギーのヘントという街の中心にある聖バーフ大聖堂にある作品です。
日本ではあまり知られていませんが、ヨーロッパ美術の中では「至宝中の至宝」と呼ばれるほど大事な作品です。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
画像の赤い線の所から折りたためるようになっています。
祭壇画を閉じた状態でもこのように絵が描かれています。
開いた状態で12面、閉じた状態で12面の合計24面から構成された祭壇画です。
「至宝中の至宝」という事で、第二次世界大戦時、ヒトラーが最も欲しがったのが《ヘントの祭壇画》でした。
この作品はナチス・ドイツに略奪され、オーストリアの塩の鉱山に隠されます。
大戦も終盤に差し掛かりナチス・ドイツの敗戦が見え始めた頃、アメリカがソ連よりも先に作品を保護しようとして、モニュメンツ・メンと呼ばれるチームを派遣し奪還します。
ジョージ・クルーニーが監督・脚本・製作を手掛け、自らも出演もした映画「ミケランジェロ・プロジェクト(原題:The Monuments Men)」はナチス・ドイツに奪われた美術品の奪還を試みるモニュメンツ・メンの姿が描かれています。
開いた状態の上部に描かれているのは、神としてのキリスト、そして両脇にはマリア様と洗礼者聖ヨハネが描かれています。
その真下には「神秘の子羊」が描かれており、これはキリストを表していると言われます。
左下には「正しき裁き人」という正義を守る人たちが描かれています。
左上に描かれている聖歌隊は、舌の動きや歯の位置まで緻密に描かれており、コーラスのどのパートを歌っているか判別ができるほどだといいます。
写実的でしかも細密描写という、イタリアとは全く違う絵画である事が分かります。
《ヘントの祭壇画》が描かれたのが1430年頃と言われています。
パート1でご紹介したボッティチェリの《春(プリマヴェーラ)》が1480年なので、それよりも半世紀前の作品という事になります。
さらにボッティチェリの作品はテンペラ(顔料と卵黄を混ぜた絵具で描くもの、光沢がある)だったのに対して、こちらの祭壇画は油絵で描かれています。
つまりイタリアよりも50年早く、油絵の技法は確立していた事になるのです。
日本に来ないといわれる訳
ヘントという町にはこの祭壇画を見るために世界中から美術ファンや観光客がやってきます。
そして山田五郎さん曰く「ヘントはこの祭壇画の他にはなにもない(笑)」と言います。
つまりこの作品を日本に貸してしまうと、ヘントには誰も来なくなってしまうのだそう。
思いっきり素人発想ですが、代わりに日本のスゴイやつを
貸すとかじゃダメなんでしょうかね?(笑)
よろしければこちらもご覧下さい。
☛【日曜美術館】ヤン・ファン・エイク《ヘントの祭壇画》【まとめ】
同時代のドイツの美術
ネーデルラントの他にもう一つ、ルネサンスと同時代に美術が栄えていた場所があります。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
それが南ドイツでした。
ここには鉱山があり様々な産業が栄えていました。
その頃ローマ法王庁は莫大な経費の補填のために免罪符(贖宥状)を発行します。
免罪符とは「お金を払って免罪符を買えば、罪が軽減される」とされたものです。
そしてこの免罪符をバンバン発行して売りつけた相手がドイツだったのです。
当時ドイツは、”搾れば搾るだけお金が取れる”という意味で「ローマの牝牛(めうし)」とまで呼ばれていました。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
そういった背景がありドイツで宗教改革が起こるのです。
その宗教改革の中心人物となったのがマルティン・ルターです。
そしてこの肖像画を描いた画家が、ルーカス・クラーナハ(父)でした。
そのクラーナハと同時代に活躍し、クラーナハよりも評価をされていたのが次にご紹介する画家です。
《1500年の自画像》デューラー
《1500年の自画像》1500年
アルブレヒト・デューラー
ドイツ、アルテ・ピナコテーク蔵
めちゃくちゃかっこいい自画像ですね!
アルブレヒト・デューラー(1471-1528)は、自身もイタリアに赴き、人体比率や遠近法、さらにはルネサンスの思想も学んでいます。
デューラーによって、人間の理想美を追求するルネサンスと、北方美術特有の細密描写が結びついたと言われています。
この自画像はそんなデューラーの20代後半の時の自画像です。
横にはラテン語で文章が書かれています。
「ニュルンベルク生まれのアルブレヒト・デューラーが
28歳の時に私自身をカラーで描いた」
自己主張やや強めな感じがしますね。
じつはこの”ラテン語で書かれている”というのがポイントです。
この自画像ですが、パッと見ですと完全にキリストに見えるかと思います。
お顔や髪形はもちろんですが、このポーズもキリストと描くときに使われるポーズなのです。
このように正面を向いて、右手を胸の位置に置くポーズは「救世主としてのキリスト」を表しています。
”世を救うキリスト”の姿に自画像を重ね合わせているのです。
「ここにはこの時代のドイツのプロテスタント的な思想が関係している」と山田五郎さんは言います。
プロテスタントは「教会を介するのではなく、個人個人がキリストを真似て、キリストと同じように生きないといけない」としています。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
この自画像にも見られるどこか自意識の強い感じは、ニュルンベルクという街とも関係があります。
ニュルンベルクは帝国自由都市(神聖ローマ帝国の重要都市)として、皇帝から自治権が与えられており、政治も一般市民が参加していました。
ですので多くの市民に教養があり、ラテン語もできたのです。
今の言葉でいう所の「意識が高い」人たちが多くいる街だったのです。
この《1500年の自画像》には当時のドイツ、とくにニュルンベルクの状況が反映されていると言えるのです。
今回の記事は以上になります。
ご覧頂きありがとうございました。
次のパート5で「日本に来ない名画展」はラストです。
カラヴァッジョ、ルーベンス、レンブラントの作品をまとめていきます。
こちら☚からご覧頂けます。
コメント
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