2019年6月11日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#311 六本木・国立新美術館「ウィーン・モダン展」~クリムトの傑作来日!世紀末・ウィーン芸術の軌跡と輝き~】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
画家エゴン・シーレ
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
2019年に東京・国立新美術館と大阪・国立国際美術館で開催された展覧会『日本・オーストリア外交樹立150周年記念 ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道』。
今回の記事ではその展覧会で出品されたエゴン・シーレの作品についてまとめていきます。
《自画像》
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
こちらはエゴン・シーレの自画像の中でも特に有名な一枚です。
1911年、シーレ21歳の時の作品です。
手のポーズや表情が印象的な一枚です。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
自己の内面を表現する絵画のことを「表現主義」と呼びますが、シーレはまさにその代表ともいえる存在です。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
顔の横の黒い部分は一見すると盛り上がった髪の毛にも見えますが、じつはよく見ると人物の横顔になっているのです。
(下側の赤い部分が唇です)
解説の本橋弥生氏によると、この横顔の人物はシーレの”もう一つの自分の姿”だといいます。
シーレは作品を通して「自己を見つめる」ということを何度もしてきた画家ですが、この《自画像》では自分の”表向きの面”と”内面”を見つめて描いたと考えられています。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
シーレは幼いころから「神童」と呼ばれるほど絵が上手く、16歳の時にはウィーン美術アカデミーに合格しています。
ちなみにシーレが受かった翌年・翌々年に、美術アカデミーを受けて落ちたのがヒトラーです。
後にヒトラーはシーレの作品を「退廃芸術だ」誹謗します。
(山田五郎さん曰く「これはヒトラーの逆恨み」とのこと)
美術アカデミーに入学したシーレですが、古典的でかつ保守的なアカデミーに嫌気がさし、退学してしまいます。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
そんなシーレが憧れたのがグスタフ・クリムトでした。
2人は30歳近く年が離れていましたが、クリムトはシーレをたいへん可愛がり、経済的な部分でもバックアップをしました。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
ウィーン分離派にも参加したシーレは、1918年の最後のウィーン分離派展(第49回)のポスターを手掛けています。
このポスターでは空席の椅子がありますが、これは同年に亡くなったクリムトに捧げられたものと考えられています。
そしてシーレはクリムトが亡くなったとのと同じ年に、まるで後を追うかのように28歳の若さで亡くなってしまいます。
《ひまわり》
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
こちらはシーレ20歳の時の作品です。
自らの姿をひまわりに重ねて描いている、と考えられています。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
『ひまわり』といえば”ゴッホ”のイメージが強いかと思いますが、じつはゴッホはドイツ語圏でたいへん人気がありました(オーストリアも公用語はドイツ語です)。
ドイツ表現主義もゴッホから多大な影響を受けています。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
一般的にひまわりの花は明るい印象があるかと思いますが、シーレの描くひまわりは枯れており、どこか暗い様子で描かれています。
シーレは”自分を徹底的に見つめること”で作品を生み出していった画家でした。
そしてそこにはある種の「究極性」のようなものがあるのです。
その一方で突き詰めすぎた結果、この《ひまわり》のようにどこか”病んでいる”ような印象も作品から感じられるのが特徴です。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
枯れた花の部分とは反対に、下の部分は明るく描かれています。
クリムトの作品にも”生命の循環”のような主題の絵がありますが、シーレもこの《ひまわり》では、そういったこと〈枯れてもまた新たに芽吹く生命〉を描こうとしたのかもしれません。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
若くして亡くなったこともあり、シーレの作品数はそれほど多くはありません。
しかし多くの素描を残しており、これらを見ると線の表現が素晴らしさが分かるといいます。
今回の記事はここまでになります。