2019年11月23日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【エリザベト=ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン 激動の時代を生きた女性画家】の回をまとめました。
番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。
前回のパート1の記事はこちらからどうぞ☟☟
【マリー・アントワネットの宮廷画家】ヴィジェ・ルブラン①【美術番組まとめ】
ヴィジェ・ルブランの生涯
《麦藁帽子をかぶった自画像》1782年
彼女は1755年にパステル画家ルイ・ヴィジェの娘として生まれました。
父は幼い娘がふと描いた落書きを見て、その画才に気が付いたと言います。
ヴィジェ・ルブランは父親を師として、絵を本格的に学びます。
しかしその父が彼女が12歳の時に急死してしまいます。
師を失った彼女ですが周囲の環境に恵まれて、父親の友人の画家たちから絵の手ほどきを受けることができました。
歴史画の大家だった、ガブリエル=フランソワ・ドワイヤン。
風俗画に新風を巻き起こしたジャン=バティスト・グルーズ。
その他にも、ピエール・ダヴェーヌやガブリエル・ブリアールなどそうそうたる顔ぶれが並びます。
そんな巨匠たちから絵を学んだヴィジェ・ルブランは10代の終わりころには既に画家としてのキャリアをスタートさせていました。
1774年には友人の同じ女流画家のアンヌ・ロザリー・ボケらと共に聖ルカ・アカデミーに迎えられています。
1776年、21歳の時には画家兼画商のジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚します。
この結婚もまた、彼女が才能を開花させる大きなきっかけとなりました。
夫の画廊には各国の名画があふれており、ヴィジェ・ルブランはそれらを思う存分見る事ができたのです。
同じころにマリー・アントワネットの夫であるルイ16世の宮廷に雇われて、宮廷画家としての生活もスタートさせています。
さらに家族旅行で訪れたフランドル(現在のベルギー)でも、出会いがありました。
その地で目にしたのは、王の画家にして画家の王と謳われた巨匠ルーベンスの作品でした。
《シュザンヌ・フールマンの肖像》1622-25年
ルーベンス
ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵
これはルーベンスが義理の姉のシュザンヌ・フールマンを描いた作品です。
軽やかなタッチが印象的なこの作品に触発されて、ヴィジェ・ルブランは帰国後に次の自画像を描いています。
《麦藁帽子をかぶった自画像》1782年
「ミツバチのように色々な画家から、少しずつ蜜を集めるようにして学んだ」
彼女は自らの画業についてこのように回想しています。
《画家とその娘》
《画家とその娘》1789年頃
ヴィジェ・ルブラン
ルーヴル美術館蔵
次にご紹介する作品は、母となったヴィジェ・ルブランが、娘のジャンヌと仲良く抱き合っている肖像画です。
母親になっても美貌は変わりませんね・・・
母に頬を寄せ、無邪気に首にしがみつく娘。
そして母親の視線は優しくも、我が子を守ろうとする母性を感じられます。
身に着けているのはギリシャ風のゆったりとした装いで、そこから親子のリラックスした雰囲気が伺えます。
この頃、ヴィジェ・ルブラン34歳、娘は9歳でした。
描かれた1789年当時、ヴィジェ・ルブランは画家として、そして母親として幸せの絶頂にあった頃です。
しかし、この作品を描いて間もなくフランス革命が勃発します。
フランス革命後のヴィジェ・ルブラン
《バスティーユ襲撃》
ジャン=ピエール・ウエル
フランス革命により、親しくしたマリー・アントワネットは処刑台へと送られます。
王侯貴族と近しい関係にあったヴィジェ・ルブランも、身の危険を考え国外へと避難します。
《カトリーヌ・ヴァシリエヴナ・スカヴロンスカイア伯爵夫人》
ヴィジェ・ルブラン
ルーヴル美術館蔵
イタリア・ローマでは作品が認められ、アカデミーの会員に選出され、
ロシアでは、女帝エカチェリーナ2世の王族の肖像を描きました。
上の作品《カトリーヌ・ヴァシリエヴナ・スカヴロンスカイア伯爵夫人》もヴィジェ・ルブランがロシア滞在中に描いた作品です。
2018年の「ルーヴル美術館展@国立新美術館」
で展示されていましたね!
フランスへの帰国
ヴィジェ・ルブランが故郷フランスへと帰るのは、1802年1月、47歳の時でした。
時はナポレオンの治世。けれどもナポレオンとの関係が悪化し、ほどなくして一度フランスを出ます。
その後フランスの王政復古を機に、国王ルイ18世が彼女を呼び戻します。
以降はフランスを安住の地としました。
その後もヴィジェ・ルブランは創作活動を続け、1842年に86歳でこの世を去ります。
彼女は生涯でおよそ200点の風景画と、そして600点以上の肖像画を残しました。
そんな彼女の墓には、
「ここで、ようやく、私は休みます」
と刻まれています。
激動の人生を生きた、彼女らしい言葉です。
親しかった王妃マリー・アントワネットが37歳でこの世を去ったのを考えると、対照的とも言える大往生でした。
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