【ぶら美】佐伯祐三展①【美術番組まとめ】

ぶらぶら美術・博物館

2023年2月14日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#427 夭逝の天才画家“佐伯祐三”展~傑作120点が一堂に!命を懸けた画業のすべて~】の回をまとめました。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。

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イントロダクション

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

今回は東京駅・丸の内北口にある東京ステーションギャラリーで2023年4月2日まで開催されている展覧会『佐伯祐三 自画像としての風景』についてまとめていきます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

2022年にオープンした大阪中之島美術館
この美術館が日本最大級の佐伯祐三作品を所蔵している美術館になりますが、今回の展覧会ではその大阪中之島美術館から来た作品、さらに全国の美術館が所蔵する佐伯作品も集められ、展示替えを含めると約120作品を見る事ができます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

30歳の若さで亡くなった佐伯祐三ですが1日1枚以上のペースで、あのゴッホのような勢いで多くの作品を描き、激動の時代を駆け抜けていった画家です。

画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より

大阪中之島美術館のコレクションの元となったのが、大阪の実業家山本發次郎(やまもとはつじろう、1887-1951)が所有していたコレクションです。

佐伯の絵に惚れ込んだ發次郎は約5年の間に150点ほどの作品を収集します。
(ちなみに發次郎佐伯作品と出会ったのは、画家が亡くなった後でした)
しかしその内の約100点が空襲により焼失してしまっています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

ですので今回の展覧会で見られる約120点の作品は、現存する貴重な佐伯作品といえるのです。

画家・佐伯祐三について

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

佐伯祐三は明治33(1898)年、大阪の中津にある光徳寺というお寺の二男として生まれます。

父親は佐伯を医者にしたいと考えていましたが、佐伯は画家の道を志し、東京美術学校へと進みます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

在学中に結婚した佐伯は卒業後は家族とパリへ移ります
当時ほとんどの画家が単身でパリに渡っており、佐伯のように家族で渡仏するのは珍しいことでした。

結核を患っていた佐伯はその後一度は日本に帰国しますが、病をおして再度パリへと渡り、そこで30年の生涯を閉じるのです。

初期の自画像作品

佐伯の初期作品は”自画像”が多いのが特徴です。
ここではまず初めに、美術学校時代に描いた自画像作品について見ていきます。

《自画像》1923年

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらは佐伯が通った東京美術学校(現・東京藝術大学)の卒業制作として描かれた自画像です。

当時の西洋美術の主流である印象派、特にルノワールの影響を受けているのが見て取れます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

しかし実際に佐伯が影響を受けたのは、大正時代に活躍した中村彝(なかむらつね、1887-1924)という画家だといいます。

その中村彝ルノワールから影響を受けているので、この自画像もルノワール調に感じられるのです。

《自画像》1920-1923年頃

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらも学生時代に描いた自画像で、先ほどの自画像と近しい時期のものです。

佐伯は1917年、19歳の時に大阪から上京し、翌年二十歳の時に東京美術学校に入学しています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

先ほどの自画像はルノワール調でしたが、こちらはどちらかというとセザンヌ調の作品といえます。

《自画像》1919年頃

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらは自画像のデッサンです。
佐伯はデッサンが得意で、学校の成績も非常に良かったといいます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

この作品も筆や線の数はさほど多くはないのですが、それでも立体感を的確に捉えています。

佐伯は色々な画家の特徴を捉えることに長けており、またデッサンも抜群だったのです。

《勝浦風景》

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

佐伯は自画像だけでなく、風景画も得意でした。

この作品で描かれている”勝浦”は千葉県の勝浦ではなく、和歌山県の勝浦佐伯はこの地を写生旅行で訪れています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

水の色や波の表現もたいへん見事です。
学校でも優秀な成績で一、二を争うほどだったといいます。
佐伯はそこでアカデミックな美術の基礎をしっかりと固めるのです。

こうして自信をつけた佐伯は意気揚々と次のステージに挑みます。
1923年の3月に美術学校を卒業してから8か月足らずでパリへ向かうのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

当時パリには100人近い日本人画家がいました。
画学生がこぞってパリに行った理由としては、パリで学ぶことが流行っていたのは勿論のこと、為替の関係で行きやすかったというのがあります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

実家が裕福だった佐伯はその援助でパリへと向かいます。
また妻の米子も画家で、その実家も裕福だったことから、家族で渡仏することになるのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

渡仏の前年には子宝にも恵まれた佐伯

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

これだけを見ると佐伯の画家としてのキャリアは順風満帆なように見えますが、じつはあまりそうとは言えませんでした。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

22歳の時に父親が亡くなり、その翌年には弟が結核で亡くなっています。
また当の佐伯自身も結核の症状である喀血(かっけつ)が出るようになります。

この頃から佐伯”死”を意識していたと思われます。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらは先ほど紹介した自画像のデッサンですが、この裏面には佐伯の言葉が残されています。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

そこにはこのように書かれています。
くたばるな。今に見ろ。水ゴリをしてもやりぬく。きっと俺はやりぬく。やりぬかねばおくものか
死━━病━━仕事━━愛━━生活

佐伯の状況を知ってみると、とても”鬼気迫る”ものがありますね…

決してお金持ちの才能溢れるボンボンがパリで優雅に絵の勉強をしている訳ではない、歯を食いしばって必死に絵と向き合おうしているのが分かります。

《パレットを持つ自画像》

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

こちらはパリに渡ってから描かれた自画像です。
一目でセザンヌを意識しているのが分かります。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

佐伯はパリに渡って間もない頃はセザンヌの影響を強く受けており、このようなセザンヌ風の風景画も残しています。

佐伯のみならず当時の画家にとってセザンヌは非常に影響力のある画家だったのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

セザンヌの自画像と比べても、佐伯がちゃんと自分のものにしているのが分かります。

ただ”佐伯の個性”という部分では、まだコレといったものが確立されていない状態です。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

しかしこの後、佐伯の運命を変える出来事が起こり、そこから佐伯は”覚醒”していくのです。

画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より

その直後に描かれたのがこの顔が塗りつぶされた自画像です。
いったい佐伯の身に何が起こったのか…

今回の記事はここまでになります。
パート2へと続きます。

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