2023年2月14日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#427 夭逝の天才画家“佐伯祐三”展~傑作120点が一堂に!命を懸けた画業のすべて~】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
今回の記事はパート2になります。
画家ヴラマンクとの出会い
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
こちらの《立てる自画像》という作品も佐伯祐三の代表作の一つです。
顔の部分が塗りつぶされているこの自画像。
じつはこの作品を描いた頃に佐伯の運命を変える出来事があったのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
それが当時フォーヴィスムの巨匠だった画家ヴラマンクとの出会いです。
佐伯がパリに渡って半年ほど経った頃、一枚の『裸婦像』を描きました。
その作品の出来栄えに自身のあった佐伯は、先輩の日本人画家の里見勝蔵の紹介でヴラマンクと出会い、その『裸婦像』を見せたといいます。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
しかしその『裸婦像』を見たヴラマンクは、「このアカデミック!」と怒鳴りつけ、佐伯の絵を全否定したのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
佐伯自身は良い絵が描けたと思っていたので、ヴラマンクの言葉はショックだったことでしょう。
佐伯は日本にいるときにはゴッホやセザンヌといった”アカデミズムではない画家”を勉強していました。
ですので佐伯自身もアカデミズムとは無縁だと考えていたのですが、それでもヴラマンクの目には「アカデミック(保守的)」に映ったのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
東京美術学校で学んでいた頃の佐伯は、デッサンも上手く成績も良かったわけですが、それが本場パリでは逆に良くなかったと佐伯はここで気が付かされるのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
このヴラマンクとの出会いで佐伯はいわば”覚醒”をし、変化していったのです。
《立てる自画像》はヴラマンクとの出会いの直後の作品と考えられ、フォーヴィスムを思わせる荒々しいタッチで描かれており、影響を受けていることが分かります。
しかし、出来栄えに満足できなかった佐伯はこの自画像の顔を塗りつぶしてしまったのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
「ヴラマンクとの出会いがあったからこそ、『自分のスタイルを作っていかないとダメだ』と思うようになったわけで、(中略)これは佐伯祐三の新たなるスタートを象徴するような自画像ですね。(顔を塗りつぶすことで)1回今までの自分を捨てて、ゼロからやり直すんだと」(山田五郎氏)
《パリ郊外風景》
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
そんなヴラマンクとの出会いの後に描かれたのが、こちらの《パリ郊外風景》という作品。
私たちのイメージする佐伯祐三になってきましたね。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
ヴラマンクも同じような田舎道を描いていることから、彼からの影響を受けているのも分かります。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
この《パリ郊外風景》はペインティングナイフや筆を使って荒々しく、かつ厚塗りで描かれており、土の質感や物質感を表現しようとしているのが分かります。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
建物は傾いた状態で描かれていますが、これはありのままの形をある種”行儀よく”描くのではなく、デフォルメすることで新しい表現を目指しているものと思われます。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
ヴラマンクに反発するのではなく、まずは”ヴラマンク風”に描こうとした佐伯。
そこを目指し、到達したうえで”ヴラマンク風”から脱却し、自分らしい画風を確立しようとしたのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
こちらの《エッフェル塔の見える街角》は当時の人気画家であるユトリロの作品を意識しているといいます。
このように道と建物で奥行きを出す構図は、西洋画ではよく見られる構図でした。
しかしこの後、佐伯のオリジナリティが確立されるのです。
《コルドヌリ(靴屋)》
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
1924年、24歳の時にヴラマンクと出会い、画家として新たなスタートを切った佐伯祐三。
この頃佐伯はモンパルナス駅の裏あたりにアトリエを構えます。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
パリ市内に出向き、パリの風景を描いていく中で独自の画風を見つけていきます。
この1924年以降の佐伯の作品は「第一次パリ時代」と呼ばれます。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
その頃の画風の象徴的な作品がこちらの作品。
それまではユトリロ風のパリの街並みを描いていた佐伯ですが、その視線はだんだんと”壁”へと向かっていき、最終的にその壁を”真正面”から描くようになっていきます。
当時こういったアングルの絵はあまりなく、佐伯のオリジナリティとなっていったのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
さらにこの”扉を開けて建物の中を見せる”というのも佐伯はよく取り入れています。
描いているのは平面な壁ですが、扉を開けて中を見せることで奥行きを出す効果を演出しているのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
ここで佐伯祐三の画風が確立されました。
すなわちそれは「物質感」「正面性」「書き文字」の3つです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
佐伯はこの作品を描いた同年、同じ主題で描いた作品をサロンに出品し、初入選を果たしています。
さらにその出品作は展覧会初日で売却済みとなります(これはかなり稀なことだといいます)。
当時パリには100人以上の日本人画家がいましたが、その中でもこのように評価を受けた画家はほとんどいなく、佐伯の作品が一つのスタイルを作り上げたともいえるのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
こちらは《コルドヌリ(靴屋)》の別バージョン的作品です。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
佐伯は一つの作品が気に入ると、それと同じ構図の作品をよく描きました。
しかしレプリカのようにそっくり真似るのではなく、描き方を少し変えたり、完成までの時間を変えたりと様々な実験を行いました。
《壁》
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
こちらはなんと見たそのまま、《壁》と題された作品。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
何層も絵の具を塗り重ねることで、独特の質感・重厚感、そして壁の古びた感じがが表されています。
「実際の壁も決してきれいなものじゃない、どちらかというと小汚い感じ。こういう壁を表現してそこに情感を感じさせるような、これがやっぱり『第一次パリ時代』の佐伯作品の大きな特徴と言えますね」(東京ステーションギャラリー館長 冨田章氏)
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
壁の側面に書かれている言葉の意味は「引っ越し屋」なのだそう。
つまりは壁一面に「引っ越し屋」と書かれているのです。
これは佐伯によるデフォルメ等ではなく、実際にこういった壁・建物であったといいます。
後に佐伯作品の舞台となった場所を写真に撮って周った人がいたそうですが、どの絵も実際の建物通りだったといいます。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
佐伯の作品を仕上げるスピードは驚異的で、解説の冨田章氏によると「午前中に1枚、午後に2枚」といった具合だったといいます。
そんな佐伯にとって「早く描くこと」は”技法の一つ”だったと冨田氏は言います。
意図的に早く描く事で、それでしか得られない効果があると考えていたのです。
本当の上手い画家だからこそ、出来た描き方ですね!
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
この頃兄祐正がパリの佐伯の元を訪れます。
弟の体調を心配した兄は、日本に連れ帰ることを決めてしまうのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
佐伯はパリに残る画家仲間には「日本に留学する」と言っていたといいいます。
佐伯の中ではあくまで日本に行くのは一時的で、またパリに戻ってくるつもりだったのです。
こうして佐伯は1926年の1月、船で日本に帰国するのです。
今回の記事はここまでになります。