現在、新型コロナウイルスの感染予防・拡大防止のため多くの美術館、また多くの展覧会が臨時休館しています。
僕個人的には東京国立西洋美術館の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」が開幕延期になってしまっているのが残念でなりません。
そこで今回は2020年4月19日放送の「日曜美術館」の【疫病をこえて 人は何を描いてきたか】の回を、番組内容にプラスしてまとめていきます。
古代から人々はどのようにして疫病と向き合ってきたのかを、絵画や美術を通じて見ていきます。
日本人はどのようにして疫病と向き合ってきたのか
早稲田大学の山本聡美教授によると、昔の人は「疫病と戦う」という発想はあまり無かったといいます。
過去の日本人は、疫病という恐ろしいものとどのように「共生」するかという事を、美術や音楽・和歌、祈りの言葉で生み出してきました。
法隆寺・国宝《釈迦三尊像》
画像出展元:wikipedia「法隆寺金堂釈迦三尊像」より
法隆寺にある国宝《釈迦三尊像》。
7世紀前半・飛鳥時代に造られたこちらの仏像は、聖徳太子の似姿とされています。
この仏像は聖徳太子の病からの回復を願って作られました。
光背の銘文には「622年 聖徳太子が 病に倒れた」と刻まれています。
その前年や同年に聖徳太子の母や妃も亡くなっている事から、疫病であったと考えられています。
国宝《釈迦三尊像》はいわば、日本美術の出発点と言えます。
以降日本の美術は、疫病と向き合ってきました。
国宝《辟邪絵 天刑星》
国宝《辟邪絵 天刑星》
平安時代・12世紀
奈良国立博物館蔵
読み方は「へきじゃえ てんけいせい」です。
平安時代になると、この絵のように”疫病”自体が視覚化されるようになります。
この作品では、疫病は”鬼”の姿で表されています。
「辟邪絵」というのは、元々中国で信仰された疫鬼(えきき)(疫病をはやらせる悪神)を懲らしめる良い神様を表したものです。
中央にいるのが疫病を退治する陰陽道の鬼神、天刑星(てんけいせい)です。
文字通り「天の刑罰を与える星」がその名の由来です。
そしてその手に掴まれている小さな鬼たちが疫病です。
天刑星には4本の腕があり、鬼が次々に捕らえられ、画面の左下のお酢に浸されたのち食べられてしまってます。
ここで鬼たちは哀れな表情で描かれています。
この時代は疫病を視覚化して、そのふるまいを理解することで、鑑賞者の安心につながりました。
これは現代の我々でいう所の、電子顕微鏡で捉え拡大されたウイルスの映像がメディアで流される事により、「こういうものか」と理解の第一歩に繋がるのと似ているかもしれません。
《融通念仏縁起絵巻(清涼寺本)》
疫病は13世紀後半までに、鬼の姿として描かれる事が定着していきます。
見えないものであった”疫病”というものに、鬼の姿を与える事で疫病と向き合ってきたのです。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
15世紀初頭に描かれたこちらの《融通念仏縁起絵巻》では、天然痘の蔓延の様子を描いています。
入り口の前に大挙する鬼たちが疫病を表しています。
道場の奥では人々が念仏を唱えていますが、その入り口ぎりぎりまで鬼が迫っています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
青い衣を着た男性はこの家の主です。
男性は鬼たちに向かって、一巻の巻物を示しています。
その巻物には行われている念仏の仏事に参加している人たちの名簿が記されています。
そこで鬼(疫病)たちは念仏の功徳に感じ入って、その参加者名簿の一人一人の名前の下に「この人には悪いことをしない」という約束のサインを書いて、退散していったというのがこの巻物のストーリーです。
この絵巻では、”仏様の加護により押し寄せた疫病を払いのける事ができた”というストーリーにすることで、鬼の姿も和らげられてユーモラスに語られています。
このように表現される事で、物語の中に恐怖が回収されていくという効果がありました。
現代のように発達した医学のないこの時代。
人々には疫病に抗う術はありませんでした。
疫病がもたらす「死」という恐怖に対して、物語や美術を通して”心の準備”をすることで、日本人はそれに向き合ってきたのです。
物語というのは必ず始まりがあり、そこからクライマックスに向かい、やがて終わります。
絵巻物や物語にすることで、疫病といった先の見えないもの対しても終わりがある事を理解できるといった側面もあったのかもしれません。
厳島神社・国宝《平家納経》
ここまでは、疫病という存在を可視化することでその恐怖と向き合う事を見てきましたが、それとは全く別の方法もありました。
それは「美しいものを作る」という事です。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
こちらは広島県の厳島神社に伝わる、国宝《平家納経》です。
平清盛をはじめ、平家一門の人々が一族の繁栄と世の中の平安のために、一巻ずつ書写して厳島神社に奉納したものです。
この経典群が描かれた平安時代後期は、疫病や災害・戦乱などで世が乱れていました。
その不安や恐れが、豪華絢爛で且つ精緻な図画生み出すという、これまでにはない方向で表されたのです。
この時代は世の混乱と反して、日本美術史の黄金時代、そしてその美しさが極められた時代といえます。
いわば疫病・災害・戦乱などの社会的な負の部分への対処がその原動力となったといえるでしょう。
現代の私たちは、平安時代の美術を鑑賞した際、単純に「綺麗だな、美しいな」と感じてしまいがちですが、その感動や美しさの裏にある”願い”であったり”願わざるを得ない不安”を考える事で、また違った見え方になるかもしれません。
まとめ:日本美術における災害や疫病に対する向き合い方
豪華絢爛で知られる京都の「祇園祭」も、ルーツは平安時代に起こった疫病を封じるためでした。
美しく飾ることで、疫病の神を鎮めておこうと考えたのです。
早稲田大学の山本聡美教授によると、過去の美術は災害や疫病に対して、その心のケアをどうするかというのを重要視していたといいます。
目の前で人が亡くなっていく、次は自分かもしれない、という不安の中でどのように日々を過ごすのかが重要でした。
その時に神や仏の力で救われる事があり、それをサポートするのが美術だったのです。
祈りや恐れが可視化される事で、そこから得られる安心感があったのです。
『アマビエ』について
ここからは現代の日本のアートと、現代の疫病・コロナウイルスとのかかわりをまとめていきます。
キーワードは「アマビエ」です。
今SNS上で”アマビエ”なる妖怪のイラストがブームになっています。
様々イラストがアップされますが、共通点は長いくちばしと長い髪、ウロコがある点です。
その姿を描くことで新型コロナウイルス対策になるとされ、人気を集めています。
著名な漫画家やクリエイターもアマビエの画像をSNSに投稿し、ついには厚生労働省の感染予防キャンペーンのマスコットにも使われました。
それでは、そもそも”アマビエ”とは一体なんなのでしょうか。
1846(弘化3)年のかわら版にその姿が描かれています。
画像出展元:wikipedia「Amabie」より
かわら版の左側に見えるのが”アマビエ”の姿です。
先で示した特徴が確かに表れています。
右の文章には以下のような事が書かれています。
『肥後の国(現在の熊本県)の海の中に”アマビエ”と名乗るものが現れた。
その後6年間の豊作と疫病の流行を予言、さらに自分の姿を写したものを人々のに見せよと言い、海中に去って行った』
じつはこのかわら版こそがアマビエにまつわる唯一の資料なのです。
ですので、アマビエについて詳しい事はよく分かっていません。
海彦(アマビコ)について
しかし手掛かりとなる同じような妖怪がいるといいます。
それが「海彦(アマビコ)」です。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
3本の足を持つサルの姿をした妖怪です。
海彦についての資料は多く残されています。
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
この錦絵は明治時代にコレラが流行した際に、感染予防のお守りとして街中に売られていたものです。
つまり「海彦」は疫病から守ってくれる妖怪だと信じられてきました。
一説によると、アマビエは”アマビヱ”と記載した際に”ヱ”と”コ”が似ている事から起こった書き間違い、もしくはわざと書き換えたのではないかと言われているのです。
疱瘡絵とは?
画像出展元:テレビ番組「日曜美術館」より
江戸時代には「疱瘡絵(ほうそうえ)」と呼ばれる絵がありました。
当時流行した疱瘡(天然痘)の除けのお守りで、浮世絵の一種です。
その絵は病気から守ってくれるお守りとして、広く用いられました。
色は魔除けの色である赤が用いられ、金太郎や武者絵など様々なものがありました。
今ブームになっているアマビエは、たいへん不思議な姿をしており、魚か人間か分からない様子です。
けれどもそれが疫病から守ってくれるという発想は、幕末の「疱瘡絵」の発想とあまり変わらないのかもしれません。
今回はここまでになります。
続くパート2では、西洋美術における疫病との向き合い方を見ていきます。
こちら☚からご覧いただけます。
コメント
[…] 2020年4月19日放送の「日曜美術館」の【疫病をこえて 人は何を描いてきたか】の回を、番組内容にプラスしてまとめていきます。 前回のパート1では日本美術と疫病についてまとめています。 (パート1はこちら☚からご覧いただけます。) […]