2020年4月2日にNHK・BSプレミアムで放送された「ダークサイドミステリー」の【ナチスを騙した男 20世紀最大の贋作事件】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
こちらの記事はパート5で、パート4からの続きになります。
前回の記事はこちら☚からご覧頂けます。
終戦、そしてメーヘレン逮捕へ
1945年5月、ベルリンが陥落します。
ナチスドイツは敗北し、オランダは解放されました。
この当時オランダは食糧難に喘いでいましたが、メーヘレンは贋作を売って手にした大金で悠々自適な生活を送っていました。
ところが終戦からわずか3週間後、警察がメーヘレンの自宅へ。
彼は逮捕されてしまいます。
逮捕の容疑は「国家反逆罪」でした。
罪状は、オランダの宝であるフェルメールをナチスに売り渡したというものでした。
戦争が終わり、連合国軍によってナチスが略奪した美術品は次々に回収されていきました。
その数はおよそ25万点に及ぶと言われています。
もちろん、ナチスナンバー2のゲーリングのコレクションも押収されます。
その中にメーヘレンが描いたフェルメールの贋作《キリストと姦婦》もあったのです。
警察はこの作品の出所を調査します。
そしてその売買記録から、メーヘレンの名前が浮上したのです。
この時点では勿論、メーヘレンが描いた贋作だという事は誰も知りません。
「オランダの至宝であるフェルメールをナチスに売った売国奴だ」としてメーヘレンは国民から糾弾されるのです。
メーヘレンの告白
メーヘレンは逮捕されて一か月以上、黙秘を続けたといいます。
恐らく彼は迷っていたのでしょう。
《キリストと姦婦》が自分の描いた贋作だと白状すれば自由の身になれる。
しかしそうすると、既にフェルメールの作品だと認められた自分の絵が価値を失ってしまいます。
贋作について何も話さなければ、自分の描いた絵が今後もフェルメールの作品として後世に残っていきます。自由と引き換えに。
そして、ついに重い口を開き告白するのです。
「あの絵は自分が描いた」と。
そしてそれは《キリストと姦婦》だけではなく、フェルメールの作として美術館に収蔵されている《エマオの食事》や《最後の晩餐》も自分の手によるものだと打ち明けたのです。
しかし、警察もマスコミもオランダ国民も彼の言葉を信用しませんでした。
そう、皆にとってそれらの作品は既にフェルメールの作品でそれを疑う余地などなかったのです。
そんな彼らの耳はメーヘレンの告白など「罪を逃れたいがためのたわ言」にしか聞こえなかったのです。
新ナチ芸術家のレッテルを貼られたメーヘレンに対して、当時の人々は「あれは本物のフェルメールだ。お前にこんな絵画を描けるわけがない!」と思ったのです。
メーヘレンはそれらの作品が自分で描いたものであるという事を証明しなければなりませんでした。
そこで彼は、監察官の目の前で新しいフェルメール作品を描くのです。
《寺院で教えを授ける幼いキリスト》
特別に用意された部屋で、メーヘレンは新たなフェルメール作品の制作が始まります。
そうして描かれたのが《寺院で教えを授ける幼いキリスト》です。
1947年、世界中からマスコミが詰めかける中、裁判が始まります。
その法廷には、メーヘレンの個展さながら彼が描いたフェルメールの贋作が一堂に展示されました。
画像出展元:テレビ番組「ダークサイドミステリー」より
その裁判の中でメーヘレンは贋作を描き続けた理由をこう語りました。
「過小評価されてきた自分の能力を贋作を作ることで正当に認めてもらいたかった」
裁判では鑑定士による鑑定結果も告げられました。
「メーヘレンの作品は素晴らしい贋作だったと言わねばならない。
それは美術評論家の『生きている間に偉大な作品を発見したい』という欲望を満たすものだった。
真実と美への探求心が、我々を盲目にして騙される結果を招いたのです」
メーヘレンの作品は、美術界という脆弱な価値観の上に成り立っている世界を暴くものだったと最大限に評価したのです。
こうして下された判決は詐欺罪で禁固わずか一年というものでした。
売国奴から国民的英雄へ
当初はオランダの宝を敵国に渡した「売国奴」として袋叩きにあったメーヘレンですが、真実が明らかになると「ナチスを手玉に取った男」としてその評価は一変します。
またゲーリングとの取引の際の支払い方法も、結果的に彼の評価を高めました。
15億円で《キリストと姦婦》を売却しましたが、ゲーリングは現金が足りず不足分を略奪したオランダ絵画で充当しました。
これが「ニセのフェルメールを使ってオランダの絵画を取り戻した」と評価されました。
ナチスに大戦中苦しめられたオランダ国民にとって、これはたいへんな救いとなりました。
メーヘレンが描いた贋作リスト
メーヘレンは生涯で11点のフェルメールの贋作を描きました。
ここではその一覧をまとめたいと思います。
- 《ヴァージナル前の女と紳士》1932年
- 《楽譜を読む女》1935-36年
- 《音楽を演奏する女》1935-36年
- 《エマオの食事》1937年
- 《最後の晩餐①》1938年?
- 《キリストの頭部》1940年
- 《最後の晩餐②》1941年
- 《ヤコブを祝福するイサク》1941年
- 《キリストと姦婦》1942年
- 《キリストの足を洗う》1943年
- 《寺院で教えを授ける幼いキリスト》1946年
*資料出展元:大人の隠れ家美術シリーズ『静謐と光の画家 フェルメール 全作品とその魅力』
《音楽を演奏する女》1935-36年
ハン・ファン・メーヘレン
アムステルダム国立美術館蔵
これなんてもう完全にフェルメールですよね。好きだわ~
メーヘレンの死
しかしその後メーヘレンが絵筆を持つことはありませんでした。
判決からわずか6週間後、心臓発作により彼は58歳でこの世を去るのです。
長年の酒とモルヒネの常用が原因とされました。
1947年12月30日のことでした。
メーヘレンの作品が見られる美術館
さいごにメーヘレンの作品が実際に展示されている美術館を一つご紹介します。
その美術館はメーヘレンが生まれた国オランダにあります。
農場が広がるのどかな町に立つ”フンダーチー美術館(Museum de Fundatie・wikipediaのリンクは☛こちらから)”の別館には、ゲーリングがかつて購入した《キリストと姦婦》が展示されています。
画家の名前は単に「ハン・ファン・メーヘレン」として。
画家としては目が出ず、修復師として生きた前半生。
その後復讐に燃え、贋作制作に走り、美術界のみならずナチスまでも騙しました。
戦争が終わり売国奴から一転、国民的英雄とされた後半生。
まさに時代の波、流れに翻弄された人生でした。
画像出展元:テレビ番組「ダークサイドミステリー」より
その彼の作品が今はこうして美術館に展示されているのです。
一人の画家の作品として。
masaya’s eye
ここで最後に、僕がメーヘレンについて思う事を書こうと思います。
(そんな大したことは言ってませんよ)
メーヘレンの話は、最後には「ナチスを手玉に取った国民的英雄となった」と終わるのが大半です。
もしナチスに作品を売却していなければ、全てが明るみに出ていなかったかもしれません。
もしかしたら未だに彼の描いた贋作を、”本物のフェルメール”と信じてありがたく見ていたかもしれません。
それか発達した科学技術が彼の贋作を暴いていたかもしれません。
そうすれば彼は「国民的英雄」ではなく、「稀代の詐欺師」となっていたことでしょう。
贋作を作り、人を騙してお金儲けをするという事自体は許されることではありません。
現に大金を払って偽物を掴まされた”被害者”がゲーリング以外にも存在するのです。
しかしこういう考え方もできます。
”その被害者はその絵をフェルメールだと思ったから、その絵に満足したから大金を出した”のだと。
絵は同じなのに、フェルメール作と言われていた時には高額で、メーヘレン作になればそうではなくなる、これは一体どういうことなのか。
結局のところ、美術作品の”価値”とは何なのか?
それを考えさせられるのが「ハン・ファン・メーヘレン」という存在なのではないでしょうか。
以上です。
最後までお読み頂きありがとうございました。
コメント
[…] パート4はここまでです。次のパート5でラストです。 ここまで贋作だとバレずに上手い事やってきたメーヘレン。 彼はこの後どうなっていくのでしょうか。こちら☚からご覧頂けます。 […]