【アーティゾン美術館】青木繁と藤島武治の作品【石橋財団の至宝!!】

ぶらぶら美術・博物館

2020年2月18日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#337 誕生!アーティゾン美術館「開館記念展」〜ブリヂストン美術館が生まれ変わって新名所に!おなじみの名画から初公開作品も!】の回をまとめました。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。

見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。
前回のパート2はこちらから☟☟
【ぶらぶら美術・博物館】アーティゾン美術館②【美術番組まとめ】

パート3では、藤島武二青木繫の作品をご紹介していきます。

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《黒扇》藤島武二


《黒扇》1908-09年
藤島武二
重要文化財

作品の読み方は「こくせん」です。

こちらは旧ブリヂストン美術館時代から収蔵されている「石橋財団の至宝」の一つで、また国の重要文化財にも指定されています。

この作品は藤島武二がローマ留学中に、現地のイタリア人女性をモデルに描いた作品です。

よく見ますと、頬の影には青色が使われています。
印象派以後の「影にも色がある」という特徴が表されています。
それが瞳の青と呼応して、いきいきとした表情を生んでいます。

アーティゾン美術館の貝塚健さんによると、この女性は「言葉を語り掛ける5秒前」に見えるとのこと。

確かに、言われてみるとそんな感じがしますね!

モデルの女性については藤島とどのような関係性だったのかは分かっていません。
この絵は藤島が帰国した後もずっとアトリエの奥にしまわれていました。
家族にも見せていなかったので、描かれてから30年以上誰も知らなかったといいます。

しかし弟子の小堀四郎藤島の入院中にこの作品を見つけます。
藤島も「見つかったら展覧会に出そう」くらいには思っていたようで、展覧会に出展されるとたちまち評判になりました。

その後も藤島はこの作品を生涯身近に置いて、決して手放そうとはしませんでした。
そして亡くなる前年に、信頼していたコレクターの石橋正二郎にこの作品を託したと言われています。

藤島武治の作品で重要文化財の指定を受けているものは、この《黒扇》を含めて2点ありますが、その2点ともアーティゾン美術館が所蔵しています。

続いて、そのもう一つの藤島武治の重要文化財の作品を見てみましょう。

《天平の面影》藤島武治


《天平の面影》1902年
藤島武治
重要文化財
天平」とは日本の元号の一つで、729年から749年の、奈良時代の頃です。
この天平時代は中国の影響を多分に受けていた時代なので、女性もどこか中国風な出で立ちです。
藤島武二がこの作品を描いたのは30代の頃です。
この作品は明治浪漫主義と呼ばれ、時間や空間を超えた彼方への感情を表そうとした作品の典型といえます。
この作品を描く前年に、藤島武治奈良旅行へ出かけています。
そこで正倉院の美術品などを見て、奈良時代に対する憧れを抱いて、それを具体的な絵にしようとこの作品を描きました。
女性が手にしているのは箜篌(くご)という奈良時代のハープのような弦楽器です。
正倉院の宝物の中にも、箜篌の残決が含まれています。
この楽器は23本の弦から構成されています。
じつはこの作品、フランスのアール・ヌーヴォーの画家に影響を受けた作品になっています。
この縦長の画面、花や樹といった有機的なモチーフはあのアルフォンス・ミュシャからの影響です。
この作品が描かれる前年の1901年に藤島武治は、与謝野晶子のみだれ髪のデザインを手掛けています。

藤島による与謝野晶子『みだれ髪』の表紙装画(1901年)

*開催中に「開館記念展」には出展されてません。
ミュシャをリスペクトしていた藤島武治ならではの作です。
またミュシャだけでなく、古代ギリシアの《ミロのヴィーナス》からの影響も考えられます。

画像出展元:wikipediaより
それはその姿勢です。
コントラポストと呼ばれる、片足に重心をかけた立ち方はその影響が見られます。
足元から上半身にかけて緩やかなS字を描くことで、じっとしているのですがその中に動きがあるように見える表現です。
つまりこの作品では、天平時代という日本の古代、そして古代ギリシア・19世紀末のフランス美術という異なる要素を混ぜ合わされています。
それでいながら画面がうるさくなく、スッと落ち着いて見られるのがこの作品の魅力と言えるでしょう。

《海の幸》青木繫


《海の幸》1904年
青木繫
重要文化財

続いては、青木繫の作品を見ていきましょう。

こちらは教科書にも載っているたいへん有名な作品です。
石橋財団の創設者、石橋正二郎が絵画を集めるようになったきっかけが青木繫でした。

この作品は青木繫が東京美術学校を卒業してすぐの、22歳のときの作品です。
7月に卒業し、すぐに千葉県館山市の布良海岸(めらかいがん)に写生旅行に繰り出します。
この旅には画家の坂本繁二郎森田恒友と恋人の福田たねが同行していました。

この絵は青木繫が実際に目にした光景ではなく、同行した坂本繁二郎が見た光景を青木繫に伝えて、青木がイメージで描いたものです。
坂本はこの作品について、実際に目にした情景とは全く異なるものだと話しています。
目撃談だけからこのような作品を描く青木はやはり天才だったのでしょう。

青木は漁師さんをモデルに使って、おそらく宿泊していた宿の庭先などに立ってもらい描いたのだろうと推察されます。

描かれている魚はサメです。

サメなんて水揚げしても嬉しくないですよね。

漁師たちは皆裸ですが、実際に裸で漁をしていたという話もあるようです。

青木繫はこの作品について友人に「もう少しで完成する」と話しています。
おそらくこの作品が展覧会に発表され、話題になった後も加筆されていたと考えられています。
そして青木は現在の段階で筆を入れるのをやめました。
青木自身も何か感じるものがあったのかもしれません。

描きかけの状態ですが、鑑賞者からすると、「青木が亡くなったあとも絵が描き続けられている」そんな風にも感じられます。

また、この作品が描かれた1904年は、日露戦争の真っ最中でした。
戦時中ということもあり、作品からは「生」を感じるのと同時にどこか「死」も連想させます。

石橋正二郎が絵を集め始めたきっかけ

ブリヂストンタイヤの創業者で石橋財団の創設者の石橋正二郎が絵を集めるようになったきっかけは、この《海の幸》が描かれた際に同行していた坂本繁二郎が、石橋の小学校のときの美術の先生だったことです。

坂本繁二郎は友人・青木繫の作品が散逸すること心配し、旧知の中であった石橋に集めてほしいと依頼したのです。
それが今日の石橋財団のコレクションの基になったのです。

《狂女》青木繫


《狂女》1906年
青木繫

青木繫の名作はすべて石橋財団にある、と言っても過言ではないほど彼の作品が充実しています。

今回の開館記念展で見られるこちらの《狂女》という作品は、中々見る事ができない貴重な作品です。

その理由はこの作品が「水彩画」だからです。
光に弱いため、展示日数が一年間に3か月以内と決められています。
ですので、今回の展覧会を逃しますといつ見られるか分からない、貴重な作品となっています。

藤島武二と青木繫、いかがでしたでしょうか。
パート3はここまでで、つづくパート4では印象派の女性画家についてご紹介していきます。

コメント

  1. […] パート2はここまでです。 パート3では石橋財団の至宝とも呼ばれる、藤島武二と青木繫の作品についてまとめていきます。 【ぶらぶら美術・博物館】アーティゾン美術館③【美術番組まとめ】 […]

  2. […] 見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい。 前回のパート3はこちらから☟☟ 【ぶらぶら美術・博物館】アーティゾン美術館③【美術番組まとめ】 […]

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