2020年12月1日にBS日テレにて放送された「ぶらぶら美術・博物館」の【#362 上野の森美術館「KING&QUEEN展」~中野京子さん解説!知れば知るほど面白い!英国王室ドラマティックな500年~】の回をまとめました。
今回の記事はパート5です。
前回のパート4はこちら☚からご覧いただけます。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
《チャールズ2世》
《チャールズ2世》1680年頃
トーマス・ホーカーに帰属
チャールズ1世の長男が、こちらのチャールズ2世です。
1660年から1685年まで在位しました。
彼は”陽気な王様”と呼ばれ、ピューリタンが禁じたエンターテインメントを復活させ、民衆から絶大な人気を得ます。
さらに非常に女性好きで、愛人との間に15人の子がいたと言われています。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
子ども時代はずいぶん可愛かったのに、変わっちゃいましたね~(笑)
亡命から帰ってきたチャールズ2世は、父・チャールズ1世の敵であるクロムウェルの墓をあばいて首をはね、ロンドン塔にさらします。
民衆はチャールズ2世のピューリタンへの復讐を恐れましたが、彼は主要メンバーだけを処罰し、それ以外はしませんでした。
”やりすぎなかった事”が民衆からの人気を得る事に繋がったのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
王になって5年後の1665年にはペストが大流行し、さらに翌年にはロンドン大火が起こり、旧市街の3分の2ほどが焼けてしまったといいます。
しかしこの大火によりペストが終息。
さらに大火で焼けてしまったのは全て木造の建築だった事もあり、以降の都市開発が急激に進むのです。
民衆から絶大な人気を得たチャールズ2世ですが、亡くなる直前に人気が急激に下がってしまいます。
死の床でカトリックに改宗し、亡くなった時の儀式もカトリックの形式で行われたのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
チャールズ2世の次に王位を継いだのは、彼の弟のジェームズ2世でした。
しかし、彼は自分が王になるとは思っていなかったため、早々にカトリックである事を公言していました。
結局ジェームズ2世は、1688-89年に起こった名誉革命によってイギリスから追放されるのです。
チャールズ2世の妻、キャサリン・オブ・ブラガンザ
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
女性好きで”陽気な王様”と呼ばれたチャールズ2世ですが、彼の正式な妻だったのが、こちらのキャサリン・オブ・ブラガンザでした。
ポルトガルの王女という事で、彼女は多額の持参金、そしてインドのムンバイの領有権を持ってきたのです。
ここからイギリスのインド支配へと繋がっていくのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
さらに紅茶もこの時、イギリスに入ってきます。
イギリスの紅茶文化はこの時から始まったのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
様々な影響をイギリスに与えた、キャサリン・オブ・ブラガンザ。
しかしチャールズ2世との間に子供はできませんでした。
しかし”陽気な王様”といわれるだけあって、チャールズ2世は子供ができなくても、妻を大事にしました。
ヘンリー8世だったら殺されてますね…
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
さらにポルトガルの王女という事で、彼女はカトリックを信仰していました。
そのため、イギリス国教会での戴冠を拒否した事でも知られています。
その妻の影響もあり、チャールズ2世も最終的にカトリックに改宗したのでは?とも考えられるのです。
その後のステュアート朝
チャールズ2世は愛人との子供はいましたが、愛人の子は「庶子(しょし)」と呼ばれ、王子や王女にはなる事はできませんでした。
ですので、チャールズ2世が亡くなった後は、弟のジェームズ2世が王位に就く事になるのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
さらにそこからジェームズ2世の子どもである、メアリー2世(在位:1689-1694)、アン女王(在位:1702-1714)と王位が継がれていくのです。
《アン女王》
《アン女王》1690年頃
ゴドフリー・ネラー
こちらのアン女王の後を継ぐ子どもがいなかったので、ステュアート朝はここで終焉を迎えます。
じつは20回近く妊娠しましたが、流産や死産、または赤ん坊が幼くしてなくなってしまうなどで、一人の子も成人するまで生きられませんでした。
彼女は”ブランディー・ナン(ブランデーおばあちゃん)”と呼ばれるほど、お酒が好きで、アルコール中毒だったとも言われています。
またもの凄く体重が増えてしまって、車いすで生活していました。
自身の戴冠式でも歩く事ができないため輿(こし)に乗って行進したとか。
ハノーヴァー朝のはじまり
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
ステュアート朝が終わり、そこから遠い親戚であるジョージ1世がイングランド王として迎えられます。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
ドイツから来たジョージ1世が即位し、そこからハノーヴァー朝が始まるのです。
しかし、ジョージ1世は英語が全く喋れませんでした。
しかしこれがイギリスにとっては好都合で、イギリスの議会政治がスムーズに進むようになるのです。
「君臨せずとも統治せず」というやつですね!
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
その後もハノーヴァー朝が続きますが、ここから四代に渡ってジョージというお名前が続きます。
4世までいったところで飽きたのでしょうか、ウィリアム4世になるのです。
画像出展元:テレビ番組「ぶらぶら美術・博物館」より
そしてこのハノーヴァー朝の流れを汲むのが、あの有名なヴィクトリア女王です。
続くパート6でヴィクトリア女王、そして以降~現代のロイヤルファミリーまでまとめていきます。
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