2020年12月5日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【オノレ・ドーミエ 庶民を描いた「都会のミレー」】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
イントロダクション
《晩鐘》1857-59年
ジャン=フランソワ・ミレー
オルセー美術館蔵
バルビゾン派の画家、ジャン=フランソワ・ミレー。
彼は日々を生きる農民たちの姿をキャンバスに描きました。
ミレーが生きた19世紀のフランスでは、神話の世界や王侯貴族ではなく、同時代の風俗や庶民の姿を描く画家が台頭してきました。
ミレーより6歳年上のオノレ・ドーミエ(Honoré Daumier、1808-1879)もその一人です。
彼は農民ではなく、都会に生きる庶民たちの姿を描きました。
今回は「都会のミレー」とも呼ばれたドーミエの作品とその生涯についてまとめていきます。
《洗濯女》ドーミエ
《洗濯女》1863年
オノレ・ドーミエ
メトロポリタン美術館蔵
こちらはドーミエの代表作である《洗濯女》という作品です。
子どもの手をひいた母親が、洗い終えた洗濯物を片手に石段を上っているところです。
この作品には、時代の現実に鋭いまなざしを向ける、ドーミエならでは観察眼が込められています。
この場所はドーミエのアトリエがあった場所の近く、セーヌ川に浮かぶサン=ルイ島の辺りです。
画家は、窓から見える何気ない日常の光景を描いています。
手を引かれた男の子が持っているのは、洗濯ベラです。
当時、洗濯をするときには欠かせない道具でした。
描かれている舞台のサン=ルイ島は、古くから最高級住宅地として世界中のセレブがこの地に邸宅を構えていました。
(かつてはあの世界的大富豪ロスチャイルド家も邸宅を持っていたとか!)
それを考えると、この女性の身なりは正直とてもセレブのようには見えません。
じつはこの女性は自らの洗濯物を洗っていたのではありません。
彼女は洗濯を生業、仕事にしているのです。
当時パリにはこの女性のように、洗濯を仕事としていた人が何千人もいたといわれています。
その労働は過酷で、また賃金も低いものでした。
それを知った上で見ると、女性の足取りもどこか重たく感じられます。
《洗濯女》に対する評価
名もなき貧しい庶民の姿を描いた《洗濯女》。
この作品は多くの芸術家から絶賛されました。
フランス・ロマン主義の画家、ウジェーヌ・ドラクロワは、「あなたほど私が評価し、称賛する人物はいない」と熱烈な賛辞を残しています。
19世紀のフランスを代表する小説家、オノレ・ド・バルザックも《洗濯女》について、「この作品にはミケランジェロ的なものが宿っている」と称えました。
「都会のミレー」
ドーミエはただ庶民の貧しい姿を描いたのではありません。
そこには彼の優しい視線がありました。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
女性と子どものいる手前側は暗い色調で描かれていますが、後方の建物は陽の光を浴びて黄金色に輝いています。
それを背にする女性は、まるで後光が指しているかのように気高く、宗教画の登場人物のようです。
ドーミエはこの《洗濯女》で、苦しい中でもたくましく生きる庶民の姿を描いているのです。
《落穂拾い》1857年
ジャン=フランソワ・ミレー
オルセー美術館蔵
こちらは同時代の画家、ミレーが描いた《落穂拾い》。
日本でも有名な作品です。
何気ない農民の日常を、気高く尊いものとして描いたミレー。
まさにその眼差しを都会の庶民にあてたような、ドーミエの作品。
ドーミエが「都会のミレー」と呼ばれるのも頷けます。
オノレ・ドーミエの生い立ち
ドーミエが生まれたのは1808年、フランス南部の港町であるマルセイユで、ガラス職人の子としてに生まれました。
印象派の代表的な画家たちが生まれる、少し前の頃になります。
父親が詩人を夢見てパリに上京したのを機に、ドーミエもパリに引っ越します。
そして家計を支えるために、幼いころから社会に出て働きます。
そして1822年、14歳の時に彫刻家アレクサンドル・ルノワールの弟子となり、石版画の道へと進みます。
挿絵画家として
その後ジャーナリストのシャルル・フィリポンに見出されて、ドーミエはジャーナリズムの世界へ進みます。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
この時代は新聞や雑誌が出始めた頃でした。
しかし識字率は高くはなく、挿絵に大きな需要があったのです。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
そこでドーミエは風刺画を次々と描いていきます。
この時まだ20代だった彼は風刺画の世界でみるみる頭角を表していきます。
しかしそんなドーミエに事件が起きます。
1831年、23歳の時でした。
当局からの摘発、そして投獄
事の発端はドーミエが描いた「ガルガンチュア」というこちらの風刺画です。
”ガルガンチュア”とは、1530年代に刊行された物語小説に登場する巨人の名前です。
この作品では、その巨人を時の王であるルイ=フィリップ王になぞらえています。
ルイ=フィリップ王は、ドーミエも参加した七月革命によって即位しました。
しかし彼はブルジョワジーの利益を優先し、自身も浪費家でした
この風刺画では大きく開いた口に、市民たちのお金がどんどん吸い込まれ、それによりお腹は膨れ上がっています。
ドーミエが描いたこの皮肉たっぷりな風刺画が、王の逆鱗に触れ彼は摘発、投獄されてしまうのです。
画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より
しかし釈放された後も、ドーミエの批判精神がひるむ事はありませんでした。
文学者やジャーナリスト達と協力し、芸術の力で社会を風刺続けます。
>>ドーミエのもう一つの代表作《三等車》