2020年6月6日にテレビ東京にて放送された「新美の巨人たち」の【誰もが知る美しき国宝建築特集!嚴島神社×姫路城×銀閣寺】の回をまとめました。
今回の記事はパート2、姫路城と銀閣寺についてまとめていきます。
パート1の記事(嚴島神社)はこちら☚からご覧ください。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
姫路城
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
純白の城。
凛々しく潔いその姿。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
続いての作品は国宝の姫路城です。
別名『白鷺(しらさぎ)城』とも呼ばれています。
現存する櫓(やぐら)の数は31。門は21。
もちろんただ美しいだけの城ではありません。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
大天守は3つの小天守を従えた連立式のものです。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
唐破風(からはふ)や千鳥破風(ちどりはふ)をしつらえたその姿は、まるで美しい白鷺のようです。
鉄壁の守り
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
この壮大な城を造ったのは、姫路藩初代藩主の池田輝政(1565~1613)です。
輝政は徳川家康の娘婿にあたる人物です。
関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康は、すぐに輝政を姫路の藩主に命じます。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
家康は後に起こるであろう、豊臣家との最終決戦に向けて、豊臣秀頼のいる大阪城を取り囲もうとしていたのです。
その中でも姫路は西から攻め上がってくる敵を食い止めるのための重要な拠点でした。
ですので、非常に守りの堅い城でもあったのです。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
天守へつながる道はどれも迷路のように複雑になっています。
攻め込むつもりで天守を目指してみましょう。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
先ずは右回りに攻略しようとした場合。
そこには「るの門」と呼ばれる小さな門しかありません。
入口が狭いというのは、敵からも狙われやすいという事になります。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
さらにこの「るの門」は、いざという時には土砂をかぶせて埋め立てる、埋門(うずみもん)という構造になっています。
埋められたら最後、それ以上進むことはできません。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
続いて反対の左側から進んでみましょう。
ここでは両脇から鉄砲や弓矢で狙われる狭間(さま)が待ち構えています。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
狭間に気を取られていると、反対側の武者溜まりに控えていた兵士にやられてしまいます。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
さいご、直進のコースは「いの門」から入っていきます。
そこから「ろの門」、「はの門」と堅固な三つの門が続きます。
これも突破するのは一苦労です。
すなわち、どこから攻めても天守に辿り着くのは難しいです。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
それでも突破されてしまった場合、最後の防衛線となるのが石垣です。
石垣も約15メートルの高さをほこります。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
7階建ての大天守を支えるのはこちらの東大柱(ひがしおおはしら)です。今も築城当時のものが残ります。
「白」に秘めたもの
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
そもそも「城」とはなんなのでしょうか?
それは”戦いの為の砦”であり、”城主の美意識の結晶”でした。
城は力強さを見せるために、その多くが”黒い城”になっています。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
しかし、姫路城は真逆の”白い城”です。
なぜこんなにも真っ白な城が造られたのでしょう?
じつはそこに、姫路城の真価があるのです。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
そこには関ヶ原の戦いと転機とした、「時代の転換」がありました。
黒を基調とした城はじつは豊臣時代に建てられたものでした。
しかし新しい徳川の世の象徴としては、すべてを超越する白色が相応しいとされたのです。
「黒色の城」で威圧感を示すではなく、圧倒的な美しさの白で、天下にその力を知らしめようとしたのです。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
姫路城は、戦のための城よりも美しさを優先した城だったのです。
銀閣寺
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
続いての国宝は『銀閣寺』。
正式名称は『東山慈照寺(とうざんじしょうじ)』です。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
最もよく知られたこちらの建物は観音殿です。
杮葺き(こけらぶき)の屋根は優美な曲線を描いています。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
二層には火灯窓(かとうまど)。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
一層は心空殿(しんくうでん)と名付けられています。
字の通り、心を空にして思いを馳せる場所です。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
そこから見えるのが錦境池(きんきょうち)と呼ばれる池の眺めです。
虚無と無常の果てに
銀閣寺は常にある建物と比較されてきました。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
それは黄金に輝く金閣寺です。
建立したのは、室町幕府三代将軍・足利義満です。
義満は永遠の権力と栄華の象徴として、この金閣寺を造りました。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
一方、銀閣寺を建立したのは義満の孫にあたる、八代将軍の足利義政です。
そしてこの義政の治世こそ、室町の世で最も混迷した時代でした。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
かの有名な「応仁の乱」。
これは義政の弟と息子による将軍職の跡目争いから勃発したものでした。
戦乱はおよそ11年に及び、都は焼け野原と化しました。
義政はこの争いに有効な手立てを打つことができませんでした。
争い事を好まず、政治にも興味のない将軍は、芸術や文化の発展に力を入れたのです。
日本の美の神髄
将軍職を息子に譲り、隠居した義政が終の住処としたのが銀閣寺でした。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
銀閣寺の東求堂(とうぐどう)、ここは義政が最も心血を注いだ場所です。
ここに同仁斎(どうじんさい)と呼ばれる一室があります。
わずか四畳半の広さですが、現存最古の書院造りといわれています。
画像出展元:テレビ番組「新美の巨人たち」より
この一室から”和の文化”と呼ばれる多くのものが生まれていったのです。
銀閣寺の造営は8年の歳月を要しました。
義政はそのすべての完成を見る事無く、1490年に亡くなっています。
今回の記事はここまでになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
コメント
[…] 今回の記事はここまでです。 続くパート2では姫路城と銀閣寺についてまとめていきます。 【新美の巨人たち】姫路城×銀閣寺【美術番組まとめ】 […]