【アートステージ】ルーベンス《キリスト昇架》【美術番組まとめ】

アート・ステージ

2020年11月14日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【歴史の転換期の名画 2 ルーベンス「キリスト昇架」】の回をまとめました。

番組内容に沿ってそれでけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪

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イントロダクション

ヨーロッパ中の王侯貴族から愛され「王の画家にして、画家の王」と呼ばれた、ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640)。

彼の作品は《パリスの審判》に代表される豊満で生命力あふれる肉体美や、《マリード・メディシス マルセイユ到着》に見られるドラマチックな画面構成など、壮麗な作品が数多くあります。

《キリスト昇架》ルーベンス

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

ベルギーのアントワープにある聖母大聖堂
世界遺産にも登録されているこの教会に、ルーベンスの絢爛たる大作があります。


《キリスト昇架》1610-1611年
ピーテル・パウル・ルーベンス
聖母大聖堂(アントワープ)

それが祭壇画の《キリスト昇架(しょうか)》です。
中央には今まさに十字架にかけられ、処刑されようとしているキリストの姿が描かれ、画面からは緊迫感が伝わってきます。


十字架を立てようとする男たちの姿は筋骨隆々で、ミケランジェロの作品を彷彿とさせます。
キリストは苦痛に悶え、身をよじっています。

この『キリスト昇架』という主題は、ルーベンスによってはじめて表現されました


向かって左側のパネルに描かれているのは、悲痛な表情で見つめるキリストの信者の姿です。

中央の老婆の視線はキリストに向けられています。
これによりパネル同士の結びつきを強調する効果を演出しています。


じっと見つめる二人は聖ヨハネ聖母マリアです。


一方右側のパネルには、キリストの処刑を決行するローマ兵の姿が描かれています。
ここに描かれている馬は正面からのアングルで描かれていますが、このような描写もルーベンスによって初めて描かれました。


キリストの苦痛と処刑の残酷さが縦4.6メートル×横6.4メートルの大画面に劇的に表されています。

《キリスト降架》ルーベンス


《キリスト降架》1611-1614年
ピーテル・パウル・ルーベンス
聖母大聖堂(アントワープ)

キリスト昇架》を描いて間もなく、ルーベンスはこちらの《キリスト降架》を描いています。
この作品も同じ聖母大聖堂で見る事ができます。

描かれている主題も『十字架にかけられるキリスト』と『十字架から降ろされるキリスト』と対になっており、また三連画の形式も同一である事から、初めから一対の作品として描かれたように感じられますが、じつはそうではありません。

キリスト昇架》の方は元々は、同市内にある別の教会、聖ヴァルブルガ教会のために描かれました。
しかし描かれた約200年後の19世紀初め、ナポレオン率いるフランス軍によって強奪。
その後返還されますが、元々あった聖ヴァルブルガ教会が既に壊されていたため、現在の聖母大聖堂に置かれる事になったのです。

 

両作のキリストの肉体は古代ギリシャ・ヘレニズム期の彫刻ラオコーン群像》の影響が見られます

時代背景

この《キリスト昇架》が描かれた17世紀前のヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントによる宗教対立が激化していました。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

プロテスタントは偶像崇拝を禁止する一方で、カトリックは宗教画や宗教彫刻で信者にビジュアル的に訴えようとします。


そんな時代背景のなかでルーベンスはカトリック教会のために《キリスト昇架》を描いたのです。

しかしルーベンスの生まれた環境も複雑なものでした。
彼の母親はカトリックで、父親はプロテスタントだったのです。
迫害を受けて、国外に亡命した事もありました。

本来両親のように、カトリックとプロテスタントは共存できるはずだ」とルーベンスは信じていました。
そしてその思いは後年の外交官としての活躍に反映されるのです。

外交官としてのルーベンス


ルーベンスは後年、外交官として活躍します。

この時、彼の故国であるネーデルラントは北と南で分断されていました。
南ネーデルラントはスペインの統治下にあり、北ネーデルラントはイギリスからの支援を受けていました。


《王女イサベル・クララ・エウヘニアとマグダレーナ・ルイス》1585-88年
アロンソ・サンチェス・コエーリョ
プラド美術館蔵

南ネーデルラントを統治していたイサベラ大公妃は南北ネーデルラントの和解には、大元であるスペインとイギリスの和解が先決だと考えました。

そこでルーベンスにスペイン側の説得を託したのです。
この時代、画家という身分は各国で内密に行動しても怪しまれない存在でした。
また宮廷人としての教養があり、外国語も自在に操るルーベンスは、外交交渉にうってつけの人材だったのです。


《狩猟服姿のフェリペ4世》1632-34年
ディエゴ・ベラスケス
プラド美術館蔵

この時スペインを統治していたのが、フェリペ4世でした。
彼は芸術に対して造詣が深く、あのベラスケスを宮廷画家に迎えていました。

そのベラスケスからの口添えもあり、フェリペ4世ルーベンスの言葉に耳を貸します。
ルーベンスの平和への思いは王を動かします。フェリペ4世はイギリスとの和平を決意するのです。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

さらにフェリペ4世は支配下の国の画家にすぎないルーベンスにイギリスとの交渉を託します。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

しかし当初イギリス側の反応は冷たいものでした。
歴史的な交渉を一介の画家が担っている事に疑問を持ったのです。

《マルスを退け平和を守るミネルヴァ》ルーベンス


《マルスを退け平和を守るミネルヴァ》1629-1630年
ピーテル・パウル・ルーベンス
ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵

そこでルーベンスチャールズ1世のために描いた《マルスを退け平和を守るミネルヴァ》が事態を動かします。

この作品では前景に平和がもたらす豊かな光景が描かれています。


一方で背後に見えるのは、戦争の神のマルスです。
マルスは争いで平和を踏みにじろうとします。

そのマルスを静止するのが、知恵の女神のアテナです。
ここでアテナは外交を象徴しているのです。

戦争は破壊だけで何も解決せず、平和は訪れない
ルーベンスはこのようなメッセージを作品に込めたのです。


ルーベンスのこの絵はチャールズ1世の心も動かします。
王はスペインとの和平に踏み切るのです。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

この功績が認められ、イギリス・スペイン両国はルーベンスに”ナイト”の称号を贈りました。
画家として、そして外交官として、ルーベンスは持ち得る才能を使って歴史を動かしたのです。

《戦乱の恐怖》ルーベンス


《戦乱の恐怖》1637年頃
ピーテル・パウル・ルーベンス
ピッティ美術館蔵

外交官から身を引いた後もルーベンスは平和を訴える作品を描いています。
当時ヨーロッパではまだ至る所で戦火が上がっていました。

中央に描かれているのは、上の作品にも登場した戦の神のマルスです。
突撃してくるマルスを、愛の女神であるヴィーナスが制止しようとします。
足元には横たわるのは、マルスがもたらした戦争の犠牲者たちです。

ルーベンスはこの作品に「放置すれば誰も戦争を止められなくなる」というメッセージを込めたのです。
平和を心から望んだルーベンスならではの傑作といえるでしょう。

晩年のルーベンス自画像

1640年、ルーベンスは62歳でこの世を去ります。
画家として、そして外交官として、彼の生涯は素晴らしい傑作と目覚ましい業績にあふれているのです。

今回の記事はここまでです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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