2022年1月20日にNHK BSプレミアムにて放送された【法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」】の回をまとめました。
番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
イントロダクション
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
2021年は聖徳太子がこの世を去って1400年という節目の年でした。
奈良の法隆寺では、御聖諱(ごしょうき)と呼ばれる盛大な法要が営まれました。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
世界平和・疫病退散を祈ると共に、太子の功績と遺徳を偲びました。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
607年に法隆寺を創建し、仏教発展の礎を築いた聖徳太子は”和国の教主“と称えられました。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
法隆寺には聖徳太子の生きた飛鳥時代の仏像だけではなく、その後の時代の仏像も納められており”仏教美術の宝庫”と呼ばれます。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
国宝だけで39件。
重要文化財まで含めるとその数200件に及びます。
その一つ一つを辿っていくと、法隆寺の激動の歴史が浮かび上がってきます。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
こちらは国宝に指定されている法隆寺の夢殿(ゆめどの)。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
ここには飛鳥時代の木造彫刻の傑作、救世観音(くせかんのん)が納められています。
明治の時代まで布に包まれ封印されており、その姿は法隆寺の僧でさえ拝むことが許されなかったといいます。
お像には今でも飛鳥時代の金箔が残り、当時の輝きを今に伝えています。
またその姿形は聖徳太子その人をかたどっていると伝わります。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
太子が亡くなってから今日までの1400年間、太子その人が篤い信仰の対象となってきました。
聖武天皇の妻である光明皇后は、太子の命日に崇敬の念を込めて貴重な白銅製の鏡を納めています。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
こちらは現在国宝に指定されています。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
奈良時代には、行信(ぎょうしん)という名の僧侶の活躍によって太子信仰の礎が築かれます。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
平安時代に入ると超人的なエピソードが盛り込まれ、太子の神格化が進みます。
こちらの《聖徳太子絵伝》では若干2歳で念仏を唱える姿や、馬にまたがり天空を掛ける姿などが描かれています。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
鎌倉時代に入り、時代の中心が武士に変わっても太子信仰は広まっていいきます。
そこに大きな影響を与えたのが、浄土真宗の開祖である親鸞(しんらん)でした。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
時代を超えて人々に愛されてきた聖徳太子。
その信仰の拠点となったのが法隆寺だったのです。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
しかしその建築構造には”弱点”がある事が分かりました。
なぜそのような弱点があるにも関わらず、長い年月の間、風雪に耐え今日まで建ち続けることができたのでしょう?
法隆寺に納められた貴重な品々からその”1400年の歩み”を辿っていきます。
法隆寺建立の経緯と《薬師如来像》
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
奈良・斑鳩の里にたたずむ法隆寺。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
西院伽藍は法隆寺の中でも中心的な場所です。
本尊が安置された金堂と五重塔が配され、その周囲を回廊が囲みます。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
金堂は飛鳥時代に創建された世界最古の木造建築です。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
かの有名な国宝《釈迦三尊像》は金堂に納められています。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
その《釈迦三尊像》の向かって右側にまつられているのがこちらも国宝の《薬師如来像》。
光背の裏側には法隆寺の起源を記した銘文が刻まれています。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
そこには聖徳太子の父である用明天皇が、自らの病気平癒を願い、寺と薬師如来像を作ることになったと書かれています。
しかし用明天皇はその完成を見届ける事無く、587年にこの世を去ります。
そしてその用明天皇の遺志を継いだのが推古天皇と聖徳太子でした。
こうして法隆寺は用明天皇が亡くなって20年後の607年に創建されたのです。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
つまり法隆寺は元々、太子が父親のために薬師如来を本尊として創建した寺だったのです。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
聖徳太子自らが手掛けた伽藍はじつは元々、今とは違う所に建てられていました。
現在の寺の南東部に位置するこちらの若草伽藍跡(わかくさがらんあと)と呼ばれる場所こそ、元々太子が建てた法隆寺のあった場所なのです。
日本書紀(奈良時代に書かれた日本の歴史書)には、天智9(670)年に法隆寺で火災があり、伽藍は全て焼失してしまったと記されています。
画像出展元:テレビ番組「法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」」より
近代になって行われた発掘調査では焼失してしまった建造物とともに火災の痕跡も確認されています。
法隆寺が焼失した当時、聖徳太子の一族は宮廷内の政争に敗れ、勢いを失っていました。
そのため法隆寺は財政難となり、危機的な状況にあったと考えられています。
今回の記事はここまでになります。
パート2へと続きます。
【美術番組まとめ】法隆寺1400年の祈り【パート2】
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[…] 今回の記事はパート2になります。 前回のパート1はこちら☚からご覧いただけます。 […]