【アートステージ】秋田蘭画【美術番組まとめ】

アート・ステージ

2020年7月25日にTOKYO MXで放送された「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」の【秋田蘭画 和魂洋才 珠玉の名品】の回をまとめました。

番組内容に沿って、それだけでなく+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪

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イントロダクション:秋田蘭画とは?

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

今回取り上げる「秋田蘭画」。
「蘭画」とは、オランダ風の絵の事です。
そのオランダ風の絵が江戸時代に秋田で描かれ、「秋田蘭画」と呼ばれるようになりました。

東洋の感性と西洋の技法が混ざり合ったその画風は、今見ても新鮮です。

絵師:小田野直武

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

東西の美を融合した秋田蘭画。
その立役者が小田野直武(おだの なおたけ、1750~1780)です。


《不忍池図》18世紀
重要文化財
小田野直武
秋田県立近代美術館蔵

小田野直武の代表作、《不忍池図(しのばずのいけず)》。
国の重要文化財にも指定されている名品です。

背景には静かな池の水面。高く広々とした空。
穏やかな当時の江戸の風景を今に伝える一枚です。

画面手前には、花を生けた大きな鉢が見えます。
芍薬(しゃくやく)という花です。
ここには直武が西洋美術から学んだ、細密描写と陰影法が活かされています。

画像からは分かりにくいですが、この花の上には実物大のアリが描かれています。

秋田蘭画の始まり

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

前にも記した通り、秋田蘭画の”蘭画”とは、オランダ絵画の事を指します。

オランダは、江戸時代、日本と唯一交易を行っていた国です。
この国は海洋国家として繁栄を築きました。

また17世紀には美術の世界でも黄金時代が訪れます。
あのレンブラントフェルメールが活躍したのもこの頃です。

市民生活が豊かになり、他のヨーロッパ諸国とは異なる、身近なもの主題にした絵画が独自の発展を遂げていきます。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

まるで写真のように描かれた静物画、ある種の博物学的趣向はオランダ絵画ならではのものです。

これらの特徴、東洋絵画にはない科学的な視点に直武も驚いたことでしょう。
しかし彼が学んだ事は細密描写だけではありません。


この作品は全体を見てみると、手前の花と奥の背景に遠近感がはっきりと感じられます。
このような遠近法も、それまでの東洋絵画に見られなかったものです。

直武手前の花をわざと大きく、景色を小さく描くことで遠近感を強調しています。
しかし、ただサイズ感を変えて描いただけではありません。

手前の花は細かく色分けされている一方、後方の背景は全体に青みがかった色で描かれています。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

これはレオナルド・ダ・ヴィンチが考案したといわれる「空気遠近法」の表現です。

直武は西洋絵画から学んだものを、この《不忍池図》に取り入れているのです。


小田野直武の代表作のみならず、秋田蘭画を代表する傑作ですが、実は発見されたのは戦後になってからの事でした。

秋田蘭画と平賀源内

それではなぜ江戸から離れた秋田の地で、オランダ風の絵画が描かれたのでしょう?

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

そのきっかけとなったのが、多芸多才で「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも称される平賀源内でした。

平賀源内は、電気を起こすエレキテルを発明した科学者で、それ以外にも戯作者、浄瑠璃作家としての顔を持っていました。
また、長崎でオランダ語を学ぶなど、西洋の情報や知識を豊富に持っていました

源内は1773年、秋田の久保田藩主である佐竹義敦に鉱山開発のために招かれました。
そこで藩士であった小田野直武と出会い、西洋流の描き方を教えたのです。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

源内直武に西洋の描き方を勧めた結果、それまでの絵とは全く違うものができました。
これが秋田蘭画の生まれたきっかけでした。

源内は3カ月ほど秋田に滞在した後、江戸に戻りますが、間もなく直武も藩命を受けて江戸に向かうのです。
江戸に到着した直武は、多くの蘭学者たちと交流を深めながら、西洋の書物や銅版画を模写。
西洋絵画の研究を積み重ねていくのです。

『解体新書』表紙

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

1774年に出版された『解体新書』。
杉田玄白らが翻訳した、日本で最初の西洋医学書として広く知られています。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

じつはこの有名な扉絵を描いた人物こそ、小田野直武なのです。

ほとんどの日本人が彼の絵を教科書で見ている、という事になりますね!

直武が江戸に出て8か月後に描かれたものです。
彼の画力の高さと研究のほどが伺えます。

佐竹義敦(佐竹曙山)

平賀源内から西洋画を伝授されたのは直武だけではありませんでした。

佐竹義敦(佐竹曙山)

久保田藩(秋田藩)の藩主である佐竹義敦(さたけよしあつ、1748~1785)も、秋田蘭画を語る上では外せない人物です。
藩主の顔の他に、曙山(しょざん)という号を持つ絵師でした。


《松に唐鳥図》18世紀
重要文化財
佐竹曙山
個人蔵

佐竹曙山は元々絵が巧みで、狩野派に学ぶほどの腕前でした。
西洋文化への関心が高く、小田野直武から蘭画の手ほどきを受け、直武とともに新しい絵画を切り開いていきました。

その佐竹曙山の代表作が、こちらの《松に唐鳥図》。
重要文化財に指定されています。

松は陰影表現を駆使して、写実的に描かれています。
斜めに画面を横切る、大胆な構図になっています。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

その鮮やかな松の枝にとまる、色鮮やかな一羽の鳥。
タイトルにある「唐鳥」とは異国の珍しい鳥の事を指します。
曙山の写実的な表現から、この鳥がインコである事が分かります。

描写、構図、作品の気品。
そのどれもが古さを感じさせない、見事な一枚です。

秋田蘭画のその後と司馬江漢

革新的な秋田蘭画でしたが、その中心人物だった小田野直武が1780年に数え32歳の若さで亡くなります。
さらにその5年後に佐竹曙山も36歳で早世。
秋田蘭画は後継者がいなくなり、次第に忘れられていくのです。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

しかし、秋田蘭画の技術や理論は、江戸で直武曙山と交流があった司馬江漢に受け継がれます。
そしてさらに洋画色が濃いものとなって、江戸系洋風画として展開していくのです。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

司馬江漢は日本、中国、そして西洋の画風を折衷した独自の画風を展開していきます。
極端な遠近法を用いる一方、油絵にも取り組んでいきます。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

洋風画での秋田蘭画では、じつは油絵具は使われていないのです。
司馬江漢は油彩画、そして銅版画にも挑戦しました。

画像出展元:テレビ番組「アート・ステージ~画家たちの美の饗宴~」より

司馬江漢の作品は、広重など後の絵師・画家たちに大きな影響を与えています。

今回の記事はここまでになります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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