2020年4月19日にwowowで放送された「CONTACT ART~原田マハと名画を訪ねて~」の【#8 シーレ/豊田市美術館】の回をまとめました。
番組内容に沿って、+α(美術検定で得た知識など)をベースに、自分へのメモとして記事を書いていこうと思います。
見逃した方やもう一度内容を確認されたい方は是非ご覧になって下さい(^^♪
今回の記事は後編になります。
前編の記事はこちら☚からご覧いただけます。
エゴン・シーレの生涯
エゴン・シーレは1890年、ウィーン近郊の街で父親が鉄道員を勤める家庭に生まれます。
幼少の頃からすでに美術の才能に恵まれていたといいます。
しかし、14歳の時に父親が梅毒により亡くなります。
死に対する恐怖や不安から、シーレは自己の内面へ目を向けるようになります。
美術学校を中退したシーレは独自の道を歩み始めます。
「もっと新しい表現を。もっと過激に」というこれまでの絵画の常識に捉われない作品を生み出し続けます。
さらに当時タブー視されていたエロティック・性的な表現の作品も生み出していきます。
シーレのこれまでにない取り組みに対する周囲の目は冷ややかなものでした。
ある時は14歳の少女を監禁したという疑惑をかけられ、家宅捜索を受けます。
その際に大量の過激なヌード作品が見つかり、それもあって数日間拘留されるという事もありました。
その後身の潔白は証明されますが、彼の作品は卑猥なものだとして燃やされてしまいます。
(シーレの手記にはその少女は家出少女で、ただ一晩の宿を貸しただけであり、やましい事はないと残されています)
この時代の絵画や芸術というものは、まだ「美しくなければいけない」という時代でした。
そんな中でも、シーレは自身の作風を変える事はしませんでした。
彼は自画像も数多く残しています。
整った顔立ちをしているので、若干ナルシストのようにも感じますが、「カッコイイ自分の酔いしれている」というよりも「自分の人間としての根源に迫ろう」と気概が自画像からも見受けられます。
ちなみに原田マハ氏のシーレのイメージは「ロックスター」だそうです。
この時代に画家として新しい事をやるというのは、若者の間では”カッコイイ”事であり、それは今の時代でいう”ロックアーティストのような感じ”だったのかもしれません。
クリムトとの関係について
画像出展元:テレビ番組「CONTACT ART~原田マハと名画を訪ねて~」より
《カール・グリュンヴァルトの肖像》の隣にはグスタフ・クリムトの《オイゲニア・プリマフェージの肖像》が展示されています。
クリムトはシーレにとって先生であり師匠でした。
クリムトは若きシーレの才能に気づいていたといいます。
以降亡くなるまで、シーレのサポートや彼の初めての個展開催に向けて尽力しました。
二人の間には強い絆がありました。
しかしこの並んだ2枚の作品からも分かるように作風は全く異なっていました。
クリムトはウィーン分離派を立ち上げて、新しい事にどんどん挑戦していきます。
新しいものを貪欲に取り込みながら、自分の表現を確立し、それはやがて”黄金様式”と呼ばれるようになります。
《接吻》1907-1908年
グスタフ・クリムト
オーストリア・ギャラリー蔵
(*豊田市美術館の所蔵作品ではありません)
こちらはクリムトと言えば!の代表作《接吻》です。
黄金様式と呼ばれるスタイルを作り上げ、この作品でも金箔が多用されています。
じつはシーレはこの《接吻》へのオマージュとする作品を描いています。
《枢機卿と尼僧(愛撫)》1912年
エゴン・シーレ
こちらがその作品です。
《接吻》へのオマージュといいながらも、(確かに構図の影響は見られますが)シーレの個性が非常に強く感じられる作品です。
もしシーレが”クリムトにつづけ”と言わんばかりに、彼の模倣ばかりしていたら二人の間に強い絆は生まれなかった事でしょう。
クリムトの影響を受けながらも、シーレは自分の芯となる部分は変えずに独自の芸術を追求していったのです。
今回の作品《カール・グリュンヴァルトの肖像》を描いた一年後の1918年、スペイン風邪で28歳という短い生涯を終えるのです。
奇しくもクリムトが亡くなったその同じ年にシーレも後を追うように他界してしまうのです。
全く画風も違う、年も28歳離れていたシーレとクリムトですが、もしかすると一心同体のような存在だったのかもしれないですね。
今回の記事は以上になります。
最後までご覧頂きありがとうございました。
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[…] パート1は一旦ここまでです。 続くパート2はシーレの生涯とクリムトとの出会いについてまとめていきます。 こちら☚からご覧いただけます。 […]